「ボクは試験台みたい」 初の沖縄出身プロ野球選手「安仁屋宗八」が背負っていたもの(小林信也)

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 安仁屋宗八は1944年8月17日、沖縄県那覇市で生まれた。11人兄弟の8番目。戦時中は大分に疎開し、戦後すぐ沖縄に戻った。

 兄の影響で野球を始め、中学で野球部に入った。

「月に1~2回、巨人戦のテレビ放送があった。2軒隣りの家にテレビがあってそこで見せてもらった」

 安仁屋が振り返る。プロ野球は沖縄の少年には遠い別世界に感じられた。

 沖縄高校(現・沖縄尚学)1年の秋季大会、思いがけず登板の機会が巡ってきた。先輩投手が18球続けてボールを投げた。監督は、打撃練習でコントロールのいい安仁屋をマウンドに送った。すると見事に抑え、連戦連勝、優勝を飾った。

「最初からコントロールは良かった。同級生と二人で毎日20キロは走らされた。1日500球投げたこともある。200球、300球の投げ込みは当たり前。投げ方が良ければ大丈夫。肘も肩も一度も壊したことがない」

 高3の夏まで、県内ではほとんど負けなかった。2年夏の決勝だけ、前日の打撃練習で指に死球を受けたケガのために負けた。

 62年夏、県で優勝し、南九州大会に進んだ。前日、一昼夜かけ、船で宮崎に入った。安仁屋ら沖縄の球児たちは無邪気で元気だった。

「宿舎の前の川にボートがあった。それで2人ずつ乗って海の方にこぎ出した」

 ところが帰りは引き潮で、全然進まなくなった。

「焦りましたよ。みんな必死にこいで手がマメだらけ。私はこぐなと言われて、ボートを降りて懸命に押して帰りました」

 決戦前夜にボート遊び。

「沖縄勢が本土の高校に勝ったのは見たことなかったし、自分たちも勝てると思っていなかったからねえ」

 安仁屋がのんきに振り返る。それが沖縄の気風、県民性なのだろうか。

 翌日、安仁屋の好投もあり、沖縄高校が勝った。沖縄代表が実力で2次予選を勝ち抜き、甲子園出場を果たすのは40年ぶりの快挙と驚かれた。朝日新聞は《祖国復帰まず野球で》の見出しで、次のように伝えた。

〈宮崎大淀高校と栄冠を争った二十九日、那覇の大通りは車も人通りもほとんど止った。島内二つの民間放送が高い電話料を払って国際電話で中継した放送にかじりついたのだ。ラジオ屋の店先はどこも黒山の人だかり。勝利のサイレンを聞いた一瞬、だれも声を出さなかったが、やがて“勝った”“勝った”の声が各所でわき上がり、手をとり合って喜ぶ騒ぎになった〉

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