「平尾誠二」が逝った9年前の衝撃 「孤高、そして真面目で繊細」なミスター・ラグビーが愛唱した“納得の名曲”とは

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日本のラグビーに“自由”を持ち込んだ

「僕は平尾君に日本ラグビー協会の会長になって欲しかった。カリスマ性も実績もあった彼は、それほどの人材だったのです」

 そう嘆くのは元日本代表の松尾雄治氏である。

「平尾君は試合中も寡黙な男でしたが、すごかったのは、日本のラグビーに“自由”を持ち込んだことです。思い出すのはニュージーランド遠征の時、相手チームが深く蹴り込んできたボールをタッチラインの外に出すのかと思ったら、キャッチしたまま突っ込んでいった。当時はあり得ないプレーでしたが“臨機応変のないチームは世界で勝てない”というのが彼の持論。また、神戸製鋼がいち早く外国人選手を起用したのも平尾君の意思があったはず。“我々が持っていないものを外国人選手から学ばないといけない”というのが口癖でした」

 日本代表監督としては満足のゆく実績を残せなかったものの、平尾氏の考えは昨年のワールドカップで結実したといえる。終了間際の劇的トライで南アフリカを破った試合を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。

 だが、身体に潜む病魔が牙をむいたのは、皮肉にも大会の前後のことだった。

死の一年前、9月に余命宣告

 神戸製鋼コベルコスティーラーズのGMを務めるかたわら、日本ラグビー協会の理事として忙しい日々を送っていた平尾氏だが、昨年9月になって入院する。まわりには胃潰瘍と説明していたが、この時、医師からはすでに「余命宣告」を伝えられていたという。

 それでも、松尾氏が都内で経営するバーに姿を見せたのは昨年10月。この時、平尾氏はまだ色艶も良く、病人には見えなかったという。明らかに異変が見て取れたのは今年1月に大阪で開かれたスポーツフォーラムに出席した時だ。

「頬が痩せこけて精悍なイメージがすっかり消えてしまっていたのです。まわりには“ウエストが現役時代に戻った”と冗談を言っていましたが、ラグビー協会の理事会も欠席するようになっていました」(スポーツ紙記者)

 前出の松尾氏が言う。

「今春から私のラジオ番組が始まったのですが、第1回のゲストに平尾君を呼びたかったのです。“お前しかいない”とメールを送ってね。ところが、3月20日に来た返事には“光栄な話ですが神戸を離れられません”と書いてあるだけでした」

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