「歌っている間だけは恋人に会えたんじゃないか」 加藤登紀子“波乱の人生”に響き続ける「シャンソンの女王」の代表曲

  • ブックマーク

 夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さん。これまでの取材データから、俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第38回は加藤登紀子さん。誰もが知っている名曲のウラにある、壮絶な人生ドラマを明かします。

後光が差している

 ある時、タクシーに乗っていて、話好きのドライバーにこんな質問をした。

「これまで乗せてきた有名人で、今も印象深く残っている人は誰ですか」

 すると、即答だった。

「やっぱり加藤登紀子さんですね」

「どこがですか」

「乗って来たのが加藤登紀子さんとわかったので、バックミラー越しにのぞき込んだんです。すると、加藤さんに後光が差しているように見えましてね。あんな経験は初めてでした」

 ほう、そんなことがあるんだと話を聞きながら、一度は加藤さんにはお会いしたいと思っていたら、ここ数年で娘でシンガーのYaeさんの取材を含め、5回もお話を伺うことができた。あのドライバーの話がずっと気になっているので後光が差していないか、いつも気にしながら……。

 加藤さんがもっとも魅せられた歌手の一人は、フランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフ。

 生まれたのは今でも移民エリアとして知られる、ベルヴィル通りのアパルトマンの路上ともいわれる。幼少期に失明寸前になり、フランス北部ノルマンディーの娼婦宿で育てられ、大道芸人になり、17歳で出産(数年で死去)、ゴロツキと暮らし……。それから運命の出会いを何度も重ねた。その相手もボクシングミドル級世界チャンピオンのマルセル・セルダン、イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキまで……。そしてアルコール中毒や薬物中毒、肝機能不全、リュウマチなどに体を蝕まれながらも歌い続けた。

 加藤さんは、まるで「試練のデパート」のようなピアフの生誕100年を機に16年、「ピアフ物語」の公演を東京とパリで実現させた。ピアフの足跡を訪ね歩き、著書『愛の讃歌 エディット・ピアフの生きた時代』(徳間書店)も上梓した。

 加藤さんがプロの歌手になるために、最初のシャンソンコンクールで歌ったのがピアフの「メア・キュルパ(私の罪)」だった。この時は「その(幼い)顔でピアフを歌うのは無理」と言われて4位。それで翌年、かわいらしい「ジョナタン・エ・マリー」を歌ってコンクールで優勝し、1968年にデビューした。

 そのような経緯があったことから、その後はピアフを封印。ピアフの代表曲の一つ「愛の讃歌」は岩谷時子の歌詞で越路吹雪が歌って知れ渡っていることから、歌うまでもないとレコーディングしなかった。

 それが変わったのは90年代の年末恒例「ほろ酔いコンサート」。客席から「『愛の讃歌』は歌わないのか?」と声が飛んだのがきっかけだった。その時にフランス語の歌詞を思い出し、「もしも空が~」とアカペラで歌ったところ好評で、コンサートで歌うようになった。

次ページ:「愛の讃歌」誕生秘話

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。