「歌っている間だけは恋人に会えたんじゃないか」 加藤登紀子“波乱の人生”に響き続ける「シャンソンの女王」の代表曲

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「愛の讃歌」誕生秘話

 大きな出来事は02年だった。

 戦中に中国・ハルビンで生まれた加藤さんは、1歳8カ月で日本に引き揚げてきた。その過酷さは自著でも詳しく書いている。レコード会社に勤務する父が始めたロシア料理店を母が切り盛りする。そんな家で育ち、東大に進学、大学4年で歌手デビュー。「知床旅情」などがヒットする一方で、卒業式がきっかけで出会った学生運動の闘士、藤本敏夫と獄中結婚し、世間をざわつかせた。その藤本が亡くなったのが02年だった。

「愛の讃歌」の2番の歌詞は「もしもあなたが死んで 私を捨てる時も」(加藤登紀子の日本語詞)で始まるが、加藤には生々しいものだった。覚悟を持って歌うには時間が必要と封印したのだが、ピアフが歌った時のことを思った。

「愛の讃歌」の誕生には、こんな経緯がある。パリにいたピアフが、ニューヨークにいたセルダン会いたさに「飛行機に乗って来て」と迫った。ところが、なんということか、乗った飛行機を襲った生存者ゼロの墜落事故の悲劇。セルダンを歌った「愛の讃歌」の劇的な誕生秘話というしかない。レコードは半年の発売延期後、翌50年に発売された。

 加藤さんは「人生を変えた一曲」というインタビューで、こう語った。

「ピアフは恋人が亡くなった後に歌っている。歌っている間だけは恋人に会えたんじゃないか。私も彼を送って2年が過ぎ、『一緒に生きる』(歌詞のあなたと二人だけで終わりのない愛を生き続ける)の意味が分かった気がした」

 そして、05年にコンサートからメイン曲を「愛の讃歌」にし、06年にレコーディングした。

 加藤はこうも語っている。

「『歌って何か』。死にそうな時でもいい歌に出会うと見事に生き返ったピアフの魔法の力を学びたい」

「百万本のバラ」は歴史の一部

 加藤の代表曲(訳詞)に「百万本のバラ」がある。この曲はラトビアで生まれ、ロシア語に翻訳され、熱狂的に迎えられて大ヒットした。

 加藤が生まれたハルビンは、ロシアが我がものにし今も侵攻を続けるウクライナの人々まで移住させた地でもある。加藤の中で「百万本のバラ」は歌というだけでなく、歴史の一部でもある。

 22年の著書『百万本のバラ物語』(光文社)に「生きるということは、とっても具体的なことなのだ」という下りがある。加藤にとってはピアフも「百万本のバラ」も具体的なことなのだろう。

 そして、思い至ったのが後光の正体である。それはそんな加藤の体から湧き出る熱量ではないか。具体的に生きてきた熱……。

 加藤のコンサートには、日本の琴のようなウクライナの民族楽器バンドゥーラ奏者・ナターシャがゲスト出演したことがある。インタビューした時、筆者はナターシャの妹カテリーナの連載をやっていた……意外なところで接点もあったことに驚いた。

峯田淳/コラムニスト

デイリー新潮編集部

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