「これってドッキリ?」元・尼神インター誠子が解散の真相を告白 相方・渚から突然の宣言に涙

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週7でバイト

 渚は普段から特攻服のようなスカジャンを着ていて、すごく個性的だった。

「この人の誘いを断ったら『絶対あかん』と思って。『わかりました、組みます』って言って、それまで組んでいたコンビを解散して、渚と組みました」

 ネタ作りは基本的に誠子が担当していた。渚は、誠子が作るネタを全面的に信頼してくれていた。目指していたのは、「二人でやって面白い漫才」。「容姿も武器や」と思っていたので、容姿いじりのネタをやっても全く苦にならなかった。

「お笑いが大好きで、自分のやったことで笑ってもらえることが、ただただ嬉しかったんです」

 下積み時代は、結構長かった。約7~8年間は、大阪・谷町にあるセブン-イレブンで週7日アルバイトをしていた。仕事がない日は朝から晩まで働いて、オーディションやライブが入ったら、同じ店で働いていた芸人仲間と交代し合っていた。仕事は「ちょこちょこ入る」程で、バイトはずっと続けていた。

「当時は、不思議と『絶対売れる』という気持ちしかなかったです。私たち二人のやっている漫才は面白いんだっていう自信が常にありました」

 全国ネットのテレビ番組に出るようになったのは、デビューから8年目ぐらいだった。そこから東京のネタ番組にも呼んでもらえるようになり、東京に通うようになった。

 渚とは、常に信頼関係があったという。

「二人ともベタベタするのが好きなタイプではなく、いつも一緒にカフェに行ったりするわけではなかったんですけど、話さなくても分かり合える間柄でしたね」

 テレビへの露出がどんどん増え、知名度も全国区になっていく。だが、その関係は、コンビ結成の15年目で、突然終わりを迎えた。ルミネの楽屋でマネージャーを含めたミーティングをした時のこと。そこで、渚が突然「解散したいです」と言ったのだ。

「みんなびっくりして、私の第一声は『これってドッキリ?』でしたよ」

 渚は、思いを伝えるとすぐに退出した。本当にドッキリなのではないかと思い、改めてマネージャーに調べてもらったりもしたが……。現実のことだった。

「普通に悲しかったんで泣きましたね。でも、渚のことをよく知っているので、彼女が誠意を持って、意を決して発表したんだってことが、すぐに理解できました。だから、抗うことなく、『寂しいけど、わかった』と受け入れました」

 理由は渚に聞かないとわからない。

「ただ、彼女は個性的な人間だから、尼神インターとして活動する限り、自分のやりたいことを100%表現しきれない部分があったんじゃないかなと思っています。あくまで私の憶測ですが」

 解散の話は2023年12月にしたが、翌年3月いっぱいまではコンビの仕事をやった。最後の仕事は、地方の営業での漫才だった。

「特に『これで最後』という会話もなく、いつも通りに漫才をして終わりましたね」

 ***

 第1回【元・尼神インター誠子、コンビ解散・吉本退所で仕事ゼロ、収入半減も「苦しくない」と語る理由】では、誠子がフリーへの思いを語っている。

誠子
1988年、兵庫県出身。2007年、NSC大阪で同期だった渚と「尼神インター」を結成。24年3月末にコンビを解散、吉本興業を退所した。現在はフリーの芸人として活躍する一方、「誠子食堂」などの料理イベントなども行っている。

デイリー新潮編集部

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