“長嶋巨人最下位の元凶”と言われた「デービー・ジョンソン」 日本野球の洗礼を浴びた日(小林信也)

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日本野球の洗礼

 一体なぜ、ジョンソンはそこまで日本野球に苦しんだのか。当時の新聞を見直して、ある事実に遭遇した。ジョンソンのつまずきは、どうやらデビュー戦にあった。

 来日2日後の4月22日、中日球場での中日戦。雨のナイターは序盤から息詰まるシーソーゲームとなった。

 6回表2死一、二塁、4対4の場面。打順は投手の小川邦和。長嶋監督はゆっくり登場し、「代打ジョンソン」と叫んだ。

 ジョンソンが打席の前で素振りを始めた時、中日ベンチから近藤貞雄ヘッドコーチが現われた。そしてかなり間を置いて与那嶺要監督が投手交代を告げた。読売新聞が詳しく書いている。

〈球界屈指の心臓男、星野仙が、肩をゆすってマウンドに向かうと、スタンドは再び大きくどよめいた。

 自信ありげに、ゆっくりしたフォームから、星野仙の1球目は、内角へのスライダー。ジョンソンは球筋を見極めるように見送って1-0。(中略)カウント2-1と追い込んでから、木俣のサインになかなかうなずかなかった。4球目、外角のフォークボールがコーナーいっぱいに決まった。ジョンソンのバットはピクリとも動かなかった〉

 ジョンソンはこの日、日本野球の洗礼を浴びた。星野仙一は一度もバットを振らせず、見逃し三振に取っただけでなく、ジョンソンに呪縛をかけてしまった。心理戦を仕掛け、精緻なコントロールで打者の虚を突く日本の投手。ジョンソンの頭脳はすっかり壊され、シーズンを通して復調できなかった。

名監督の仲間入り

 2年目は張本勲の加入で高田が左翼から三塁に転向。ジョンソンは本来の二塁に戻って精彩を取り戻した。高田はこう言っている。

「三塁ゴロ併殺は、捕ったらとにかく二塁に投げれば悪送球でもデービーが簡単に一塁に転送してくれた。おかげで僕の三塁守備がうまく見えたんだ」

 途中、右手親指のケガの治療で帰国するなど苦難もあったが、打率.275、26本塁打、74打点で長嶋巨人初優勝の一翼を担った。

 ジョンソンは2年限りで大リーグに戻り、2年間プレーした後、引退した。

 79年にマイナーリーグの監督になり、84年ニューヨーク・メッツの監督に抜てきされた。そして86年、ワールドシリーズを制覇。名監督の仲間入りを果たした。1Aからドワイト・グッデンを昇格させたのもジョンソンの慧眼だった。

 波乱万丈の野球人生を歩んだジョンソンの訃報が9月5日に届いた。どうぞ天国で安らかに。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部などを経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』『武術に学ぶスポーツ進化論』など著書多数。

週刊新潮 2025年10月9日号掲載

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