「先生は間違うていました」で済まない…朝ドラ「あんぱん」の”ご都合主義”に強烈な違和感

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ありえない新聞社入社

 のぶが高知新報の入社試験を受けたのは1946(昭21)年だった第65回。面接時、編集局長の霧島了(野村万蔵)は思想歴を厳しく突いてきた。

 女子師範学校時代ののぶが、八紘一宇(天下を一つの家のようにすること)などと書かれた幟を立て、戦地へ慰問袋を送るための募金集めをしているのを「愛国の鑑」と報じたのは高知新報。だから、のぶが国家主義だったのはよく分かっていた。

「思想はそう簡単には変わらないんじゃないですか」(霧島)、「教師を辞めたのも進駐軍に軍国主義者としてマークされたからなのではありませんか」(同)

 のぶはまた懺悔した。

「私は子供たちに立派な兵隊さんになれと説き、何人もの教え子を戦争に仕向けてしまいました。純粋な子供たちに間違った教育をしてしまいました。ですから、もう2度と教壇に立つ資格はないと思い、辞職しました」(のぶ)

 霧島はのぶの採用に気乗りしなかったが、東海林明(津田健次郎)がのぶを擁護し、強く推す。採用が決まる。しかし現実的とは言えない。

 高知新報のモデルである高知新聞は戦時下の報道の責任を取り、社長以下の経営陣が辞職した。考えをあらためると言ったって許されなかったのである。

 全国の新聞社が国家主義との決別を迫られていた。元国家主義ののぶが戦争責任を免れ、新聞社に入る余地はなかったはずだ。万一、番組側がそれを分かっていていたのなら、戦争責任の軽視と言わざるを得ない。

 説明するまでもなく、教師をやった戦前ののぶはフィクション。そこに史実である暢さんの新聞記者歴が組み合わせられた。ここに無理があったと見る。

「教師はみんな国家主義にならざるを得なかった、仕方がなかった」という意見も聞いた。もっとも、それは違う。「仕方がなかった」で済まされてしまったら、それこそ戦争責任の無視である。戦時中、国家主義を断固拒否した教師は1人や2人ではない。

 たとえば1937(昭12)年、戦時下でも平和教育に取り組んでいた京都府京丹後市の小学校教員は警察署で事情聴取を受けた。その最中に変死する。警察側は遺族に対し、「遺体を医者に見せるな」と命じた。教師の墓石には「平和を愛し戦争に反対して」と刻まれており、今も墓参する人が絶えない。享年42。

 神奈川県平塚市にも平和教育を実践する小学校教師がいた。この教師は授業中、まず米軍の軍艦が沈められたと仮定した。児童たちが喜ぶと、亡くなった乗組員の子供たちの心中を考えさせ、やがて非戦という答えを導かせた。この教師は1932(昭7)年に検挙され、懲役6年を言い渡される。満期出所したが、直後の1942(昭17)年に肺病で死去した。まだ31歳だった。

 のぶも平和教師になるべきだったと言うつもりはない。だが、国家主義に染まるのは当たり前の話ではなかった。命を賭けた教師たちの教えは戦後民主国家の礎となった。

みんな軍国少女だったわけではない

 戦前はみんな軍国少女だったという考え方もある。これも実情と異なる。宮本百合子は華族女学校出身のお嬢さまだったが、プロレタリア文学者になり、反戦主義者となる。治安維持法違反により、1936(昭11)年に懲役2年執行猶予4年の判決を受けるが、敗戦の日まで転向しなかった。

 蘭子(河合優実)のモデルとも見られている向田邦子さんは、終戦前には東京都立目黒高等女学校(現都立目黒高)に通う高校生だった。同級生の話によると、勤労動員には駆り出されたものの、ごく普通の高校生だった。

 驚いたのは1988(昭63)年だった第129回、のぶに国家主義を教え込んだ元女子師範学校担任・黒井雪子(瀧内公美)が出てきたこと。いや再登場は分かるが、女学校の理事長になっていたのには面食らった。同級生・小川うさ子(志田彩良)は校長だった。

 教師のパージは1952(昭27)年で終わっているから、黒井が教育者になるのは理論上は可能である。しかし、戦時下に戦争加担者を幾人も養成しながら、胸が痛まなかったのだろうか。これも戦争責任の軽視と言っても差し障りないのではないか。

 先の大戦では310万人も亡くなった。なぜ亡くなったかというと、軍部のせいばかりではないだろう。敗戦直後に首相の東久邇稔彦が言った「一億総懺悔」はムシがいいが、責められるべき戦争加担者は少なくないはずだ。

 やなせさんは『ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い』(小学館)という本を遺した。非戦の願いが伝わってくる。それは「あんぱん」にも共通したが、のぶに泥を被せず、黒井は戦前のままという図式は釈然としなかった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。

デイリー新潮編集部

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