【べらぼう】まるで北朝鮮や旧東欧諸国? 松平定信の文武と倹約奨励による恐ろしい文化破壊
文化の背景には商業主義と自由
田沼時代には商業主義と自由な空気を背景に、多様な文化が花開いた。それは「宝暦・天明文化」といわれる。以前は江戸時代の文化といえば、教科書等には、前期の元禄文化と後期の化政(文化・文政)文化の2つが記載されていた。だが、近年では田沼時代の文化が独立したものとしてあつかわれる。
宝暦・天明文化の時代は、現実の社会を皮肉って、知的でナンセンスな笑いを誘う黄表紙をはじめ、多種多様な読み物が刊行された。蔦重が江戸のメディア王になれたのは、そういう時代だったからであった。狂歌が大流行したのも、平賀源内が活躍できたのも、同じ時代背景のもとだった。
この時代、錦絵の技法も完成し、浮世絵の全盛期へとつながっていく。喜多川歌麿による美人大首絵(バストアップの美人画)の流行は、寛政の改革がはじまってからだが、宝暦・天明文化の自由な空気のもとで、さまざまに試行錯誤ができたから、のちの傑作につながった。
だが、寛政の改革により、こうした文化は花開く余地を失った。美人大首絵にしても、寛政5年(1793)には、絵に評判の娘の名を書き入れてはいけないという町触が出され、同12年(1800)には大首絵自体が禁止されてしまう。松平定信は寛政5年に失脚したが、改革基調はその後も20年以上にわたって続いたのである。
思想統制や倹約は、人々の自由な思考や感性の働きをストップさせてしまう。それが風紀の乱れなどよりもよほど怖いことは、北朝鮮や旧東欧諸国などを見ても明白だろう。
滅茶苦茶な時代が文化の肥やしになる
前述のように、寛政の改革は松平定信が失脚してすぐに途絶えたわけではなかった。定信失脚後も、定信が取り立てた老中が幕政の中心を担い、そのひとりの松平信明が老中首座に就き、改革の方針を受け継いだ。定信が取り立てた政治家たちを「寛政の遺老」と呼び、彼らによる政治は文化14年(1817)、信明が老中首座に在任のまま病死するまで続いた。
とはいえ、その間も将軍家斉は大奥に入り浸って子作りに励み、自由気ままに過ごしていた。家斉は趣味人で、芸術家肌でもあり、さまざまな細部にこだわった。そしてついに、家斉の生活に口うるさく介入し続けた松平信明が死去したのである。その1年後の文政元年(1818)、家斉は寵臣である側用人の水野忠成を老中首座に就け、その後は放漫財政が黙認され、大奥の贅沢も復活した。
しかし、田沼時代以上に賄賂が横行したといわれたこの時代こそが、化政文化の全盛期となった。浮世絵や滑稽本など、宝暦・天明文化から受け継がれたもののほか、歌舞伎や川柳なども大いに発展した。
それは、53人もの子をもうけた家斉が各大名に養子を送り込み、養子を迎えた大名ばかりが厚遇されるという滅茶苦茶な時代でもあったのだが、こと文化にかぎっては、そういう風潮は肥やしになるようだ。家斉は天保8年(1837)に将軍職を退くまで50年も在位し、引退後も大御所として実権を手放さなかった。
しかし、天保12年(1841)に死去すると、水野忠邦が寛政の改革をモデルに「天保の改革」をはじめ、爛熟した文化はまた、一気にしぼんでしまうのである。
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