【べらぼう】まるで北朝鮮や旧東欧諸国? 松平定信の文武と倹約奨励による恐ろしい文化破壊
「戯ければ腹を切らねばならぬ世」
というのも、朋誠堂喜三二の本職は、出羽国久保田藩の江戸留守居役で、本名は平沢常富といった。黄表紙が絶版になっただけでなく、寛政元年(1789)3月ごろ、藩主の佐竹義和から叱責されたといわれる。戯作の筆を折るように命じられたとされ、実際、黄表紙から手を引いて、以後は狂歌を詠むのに専念することになった。
その程度では済まなかったのが恋川春町だった。彼は駿河国小島藩に仕える武士で、本名は倉橋格といった。「恋川春町」という筆名は、小島藩の江戸藩邸が「小石川春日町」にあったことに由来する。滝沢馬琴が書き遺した『近世物之本江戸作者部類』には、「当時世の風聞に、右の草紙の事につきて白川侯へめさらしに、春町病臥にて辞してまゐらず」と記されている。定信に出頭を命じられたが、病気を理由に参上しなかった、というのだ。
そして、寛政元年7月7日に死去したとされる。『べらぼう』第36回では、主君の松平信義(林家正蔵)をはじめ周囲に迷惑がかかることを危惧して、みずから腹を切った。史実においては死因がわかっていないが、昔から自死を選んだと考える向きは多い。
ドラマでは春町が死んだのち、松平信義が定信に、蔦重の言葉を伝えた。「戯ければ腹を切らねばならぬ世とは、いったいだれを幸せにするのか、学もない本屋風情には分かりかねると、そう申しておりました」。
重い言葉だが、独裁者が政権の座に就くたびに、「戯ければ腹を切らねばならぬ世」は、昔もいまも、日本でも他国でも、たびたび訪れる。
享楽的な文化を統制
『べらぼう』の第37回「地獄に京伝」(9月28日放送)では、松平定信の寛政の改革によって、倹約するように号令が下され、黄表紙などの出版統制と相まって、文化がどんどん萎んでいく様子が描かれる。
寛政の改革の眼目は、田沼意次が進めた重商主義を可能なかぎり排除し、もともと幕藩体制が依拠していた農本主義に立ち返ることにあった。田沼時代の末期には天明の飢饉が発生し、米価の上昇を機に諸物価が高騰した。そうなった原因を定信は、米作から高収入を見込める商品作物に転作したり、農村から都市に流入したりする農人が増え、作付面積が減ったせいだと考えた。
このまま自由経済を放置すれば、都市は栄えるかもしれないが、農民はますます都市に流入して農村は疲弊してしまう――。そのように恐れた定信は、士農工商それぞれを本分に立ち返らせようとしたのである。すなわち、武士には学問と武芸(文武)を奨励し、農民を耕作地に縛りつけ、町人たちにも倹約を強いて風紀を是正しつつ、享楽的な文化を統制しようとした。
どんな時代にも農産物の安定した収穫は欠かせない、という観点からは、この改革にも一理はあったかもしれない。だが、商業資本が年々成長するなかで、基本的には不可逆的な時代の流れへの逆行だったといえる。そして、為政者がこうして無理を強いたとき、いつも犠牲になるのは文化である。
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