「飯でも食べて頑張るか」と“最後の晩餐”…NHK「ニュースセンター9時」小浜維人氏、脳出血を乗り越えた先のガン闘病

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福田氏が好んだ呼び名は「小浜関」

 1961(昭和36)年に京都大学からNHKに入局した氏の記者生活は仙台局からスタートした。

「 おおらかな性格でみんなから好かれていましたね」

 とは元産経新聞記者の相川二元氏。小浜氏と同時期に仙台で駆け出し時代を送った。

「彼は山岳部出身なので勇ましかった。よく国分町を飲み歩きましたが、彼が酔っぱらって車に登り屋根をへこませて、月給2万円なのに4万円も請求されたこともあった」

 1963(昭和38)年に大阪局に移り、この時期、百子夫人と結婚し2男1女をもうけた。東京の政治部配属は1967(昭和42)年だが、

「小浜さんは福田派担当でしたが、福田(赳夫)さんに“小浜関”なんて呼ばれて可愛がられていました。体重が90キロもありましたからね」

 と言うのは元NHK政治部記者の清水善郎氏。

 そんな小浜氏が「ニュースセンター9時」の3代目キャスターに抜擢されるのは1979(昭和54)年のこと。2代目キャスターの勝部領樹氏は言う。

「初代の磯村さんは外信、僕が社会部で、3代目は政治部からというので小浜君に白羽の矢が立った。あの時期は常識を超える事件が続発しました。第2次石油ショック、アフガン侵攻、イラン革命、羽田沖日航機墜落事故など次々に起きた。これを小浜君は見事に料理していった」

「よし、飯でも食べて頑張るか」と起き上がった

 キャスター退任後、解説委員をしていた1990(平成2)年、氏を最初の病魔が襲う。脳出血に倒れたのである。

「医師には喋る商売は無理と言われたそうですが、機能回復のため、早朝から庭で新聞を読み上げ発声訓練をやったそうです」(清水氏)

 発病からおよそ3カ月で職場復帰した小浜氏は、その2年後には解説委員長に就任。NHK退職後は政治評論家として活動していたが、今度は食道ガンが襲った。

「でも、医師はガンは再発しないかぎり生命に危険はないと言っていたので、父の死は予想していませんでした」(長男)

 |だが、あまりに突然、別れはやってきた。長女(29)は語る。

「亡くなる前日、父は久しぶりにビールを飲みました。父が眠ると、母はそれまで抑えていた感情が溢れ泣いたのです。それを見た父は母を抱き、“苦労かけるね”と言いました。母は“苦労なんていいから”と言うと、父は“よし、飯でも食べて頑張るか”と起きて、みんなで夕食を食べました」

 それが家族全員での最後の晩餐となった。

「早朝、あまりに安らかに眠っていたので不審に思い、ゆすったりしましたが、すでに冷たくなっていました」

 リンパ節ガンの影響で体液が肺に流れ込み、呼吸不全に陥ったのだった。

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