「さすが陛下だなあと思いました」 当時の医師団が明かしていた「昭和天皇」最後の日々 発表で“ガン”という言葉を使わなかった理由とは

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ご様子を目の当たりにして絶句

 経過は順調に見えた。1987年12月には公務に復帰。1988年1月2日の一般参賀では、3度手を振られた。だが、衰えは誰の眼にも明らかだった。

「倒れる1カ月前の1988年8月15日。恒例の戦没者追悼式の正午の黙祷に天皇は間に合いませんでした。正午の時報が鳴り響く中、陛下は壇上に向かってまだトボトボとあるいていて、黙祷に遅れてしまった。肉体的な限界が近づいている、という印象を受けました」(前出・社会部記者)

 同年9月2日、那須御用邸で記者会見があった。

「ご病状を知りたくて何度も申し込み、やっと実現した会見でした」

 と語るのは、当時、時事通信の宮内庁担当記者だった稲生雅亮氏である。

「陛下は御用邸の暗い廊下を壁伝いに誰の手も借りずに現れましたが、そのご様子を目の当たりにして、大きなショックを受けました。黄疸症状があり、痩せておられ、よく立っておられるなと思える程でした。質問しようにも、驚き絶句してしまいました」

 これが昭和天皇最後の記者会見となった。その17日後が9月19日の大吐血となるが、その容体急変はどのように伝わったのだろうか。

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「あの日を境に、竹下の空気が変わったと思います」――。竹下元総理夫人・直子さんはそう証言した。第2回【「あの日を境に、竹下の空気が変わりました」 元総理夫人が振り返った「昭和天皇が倒れた日」秘話】では、当時の宮内庁長官や総理大臣秘書官ら政界人の証言で、9月19日から20日までの動きを追う。

デイリー新潮編集部

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