「さすが陛下だなあと思いました」 当時の医師団が明かしていた「昭和天皇」最後の日々 発表で“ガン”という言葉を使わなかった理由とは
NHK局内は騒然とし、緊張感が高まった
その前日(1988年9月18日)、天皇は38度1分の発熱があり、宮内庁は予定されていた大相撲観戦の中止を発表していた。
「翌19日になっても熱は下がらず、関係先の夜回りをかけても“あまりご体調はよろしくない”という話ばかりでした」
とは、当時、宮内庁に詰めていた全国紙社会部記者。
「夜回りから宮内庁に帰ったのは午後10時過ぎ。その時点で、陛下の異変を掴んでいる社はなかった。そこに日本テレビのスクープが飛び込んできて、クラブ内は大騒ぎになった」
後の高知県知事・橋本大二郎氏(61)は当時、NHKの皇室担当デスク。
「自分がキャスターをやっていた番組『ニュースTODAY』の放送が終了して、一息ついていたところでした。そこで陛下に異変が起きたというニュースに遭遇したわけです。局内は騒然として緊張感が高まりました。来るべきものが来たのかと、みんな感じていたのではないでしょうか」
と、橋本氏ご本人。
「NHKとしても陛下が亡くなられた時に放送する番組を想定して、各界の方々にインタビューをする必要が生じました。亡くなられてからでは時間が取れそうもない。事前撮影ということになったのですが、天皇がお亡くなりになったことを前提にしゃべるわけですから、やりにくかった」
前年の天皇誕生日から“Xデー”に現実味
その日(1988年9月19日)、天皇は夕食を摂られた後、午後7時半から抗生物質の点滴をしたが、午後9時50分頃、突然、手のひらいっぱい程の真っ赤な血を吐いたのである。当直の侍医は高木侍医長に電話で報告した。高木氏はこう書き記している。
〈車の中では、「いちばん困ったことが起こった。いよいよいけないかな……」といったことを考えていました〉(高木顯著『昭和天皇最後の百十一日』)
“Xデー”という言葉が俄かに現実味を持ったのは1年前の1987年4月29日、天皇誕生日の宴の最中の出来事だった。嘔吐したのである。
「会が始まってすぐだと思います。突然、陛下が嘔吐されたのです。何かコーヒーみたいな色をした液体をガバッと吐かれたのです」
と言うのは、当時通産相だった田村元氏(84)。
「異変に気がつかれたのが常陸宮華子さまと美智子さまでした。陛下の口許を拭い、抱きかかえられるようにしてご退席されました」
宮内庁は、〈多少お疲れ気味で食事を少しお戻しになったが、今までも風邪気味のときなど戻されることもあった〉と発表したが、実は深刻な事態が進行していた。
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