最高の思い出は「長嶋さんと王さんを打ち取ったこと」 “昭和最後の完全試合”を成し遂げた今井雄太郎が振り返る野球人生(小林信也)
今井雄太郎を初めて見たのは59年前、小学校4年の夏。母が教員を務める新潟・中越高の応援で長岡から富山に行った。甲子園を争う北越大会準決勝で敗れた帰りの夜行列車。眉の太い選手が鈴木春祥監督の物まねで仲間を笑わせていた。それが2年生の今井だった。
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高校時代の今井がどんな選手だったか。恩師の鈴木元監督に聞いた。
「とにかく走らせた。お城に続く急な坂道を20往復。サボらないかマネジャーに隠れて見させたら今井は一度も手を抜かず走っていた」
卒業し新潟鉄道管理局(現JR東日本新潟支社)に入った今井の動向を新聞で見たのは1970年の秋。ドラフト候補を紹介する新潟日報の記事を覚えている。「操車場で列車を連結する仕事。真冬は手がかじかんで辛い」とあった。それから55年、佐賀に住む今井に電話で話を聞いた。
「野球半分仕事半分と聞いて入ったのに仕事ばっかり。野球は休みの日にしかできんかった。操車場で貨物列車を順番どおりにつなぐ仕事。走ってくる貨車に飛び乗って、手許の手動ブレーキで調整してつなぐ。結構危ない仕事だったね。プロ野球に入れるなら、そりゃ行きたかったさ」
今井に幸運が訪れた。70年の日本産業対抗野球大会の国鉄部門決勝で、鹿児島鉄道管理局相手に好投した。
「その試合をたまたまプロのスカウトが見ていたんだ。西鉄が2位で指名すると言ってくれた。それがさ、ふたを開けてみたら」
西鉄より先に指名順が回って来た阪急に指名された。
「驚いたけどプロ野球に入れるならどこでもよかった」
“ノミの心臓”克服法
「プロに入ったら周りはすごい投手ばかり。足立光宏さん、山田久志さんなんか、アンダースローでおれよりずっと速かった。自分は絶対通用せんと思った」
打たせて取るしか生きる道はないとすぐに悟った。
「同じチームの戸田善紀さんのまねをした。フォームもノーワインドアップにして、1球で打ち取るピッチングを目指した」
今井といえば有名な話がある。2軍では好投するのに1軍では力を出せない。“ノミの心臓”を克服するのに、首脳陣が苦肉の策を考えた。入団8年目の春、南海戦前に梶本隆夫投手コーチから1杯のビールを差し出された。
「どうせ先発する最後のチャンスやから飲め」
そう言われて断れず、飲んで投げたら好投できた。
「ビール飲んで投げるがは、苦しいばっかりさ。ビール飲んで100m走ってみ、大変やろ。それと同じさ」
博多弁と関西弁と時に長岡弁を交えて今井は話す。
3カ月後の8月31日、宮城球場でのロッテ戦で初回から三者凡退が続く好投。
「意識も何も、ベンチが『完全試合か』って冷やかすけんね。だけど6回過ぎたらベンチもシーンとして」
今井は緊張したのか?
「しないよ。完全試合なんかできると思ってないから、緊張なんかせんかった」
固くなっていたのは周りの選手たちだった。
「9回のマウンドに上がったら捕手の中沢伸二さんが来て、『どのボールを投げたいか』と聞くんさ。『中沢さんのサイン通り投げますよ』言ったら、『それでいいんだな』って戻って行った」
極度の緊張に襲われたのは「最後の一瞬」だった。最後の打者・土肥健二にシュートを投げると、鈍い投手ゴロがやや三塁寄りに来た。今井はこれを難なくグラブに収めた。
「その瞬間さ、『完全試合だ』と思ったらボールが指から離れなくなった。そんな感覚は生まれて初めてやった」
球場全体が大記録達成を確信した時、今井だけが強烈な不安に襲われていた。
「あとでVTRを見ると、捕ってすぐ一塁に投げているんだよね」、今井が不思議そうにつぶやく。誰にも分からないわずかな一瞬が今井の中にあった。
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