【べらぼう】田沼に責任を負わせて日本は衰退? 「天明の打ちこわし」から得られる重い教訓

国内 社会

  • ブックマーク

すべては田沼意次の責任に

『べらぼう』の第32回では、米が手に入らず困っている新之助の長屋に、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が米俵と酒を差し入れた。ひとまず感謝された蔦重だったが、つい「やはり田沼様ってのは頼りになりますね」といったところが、長屋住まいの男女から「なにいってんだ、田沼のどこが頼りになるってんだ」「そうだよ、米を買えなくしたのはあいつじゃないか」などと集中砲火を浴びてしまった。田沼意次(渡辺謙)の差配で米が江戸市中に流されたから、蔦重の差し入れが可能になったにもかかわらず、であった。

 江戸時代には、飢饉をはじめとする災害は、天災である以前に、失政のために引き起こされるという考え方があった。とりわけ私利私欲が問題視され、商業の重視や贅沢も、災害を生む邪気を引き起こすと考えられた。田沼政治は商業を重視していたから、なおさら災害の原因として捉えられやすく、飢饉で米が手に入らないとなると、すぐに「田沼のせいだ」という話になってしまった。

 田沼意次は「天明の打ちこわし」の前年の天明6年(1786)8月、10代将軍徳川家治(眞島秀和)が急逝すると、後ろ盾を失って老中職を追われ、謹慎を申し渡された。しかし、これも飢饉と米不足がなければ、田沼に責任を負わせて幕閣から追放することは、困難だったと思われる。

 その後、田沼はいったん再登城を許されていた。幕閣はなおも田沼派で占められていたから、ふたたび幕政に影響力をおよぼしつつあったのだが、天明の打ちこわしが命取りになった。将軍の御膝元で大規模な打ちこわしが発生したとなれば、将軍の威信の失墜にもつながる。そうはいっても、原因は不可抗力の天災であり、田沼、また田沼政治が責任を負うべきものとはいえないが、すべての責任は田沼が負わされてしまったのである。

田沼に責任を押しつけて失われたもの

 田沼は排除され、幕閣に多数残っていた田沼派の重臣たちも一掃されてしまった。その結果、改革を進める田沼を快く思っていなかった守旧派の天下となり、彼らが老中首座に抜擢したのが、『べらぼう』で井上祐貴が演じる松平定信であった。

 田沼に責任を押しつけて放逐したことは、日本にとって大きすぎる損失だったと筆者は考える。田沼こそ、行き詰っていた幕藩体制を内部から変革できた人物だった、と思うからである。

 印旛沼と手賀沼を干拓し、新しい水上流通路を整備しようとした。貨幣の交換相場を一定にしようとした。幕府が預金を幅広く集めて財政難の大名や旗本に貸し出す、いわば「中央銀行」の設立を計画した。蝦夷地(北海道)の調査と開発を進めようとした。こうした施策はすべて、田沼の退場とともに打ち切られてしまった。蝦夷地の開発に関しては、オランダ商館長らが残した記録では、箱館を新たに開港し、長崎貿易も拡充し、ペリー来航よりも数十年早く開国することをめざしていたとされる。

 当時、守旧派の連中は、田沼に責任を負わせて自分たちは責任を逃れ、居心地のいい旧体制を維持できて、さぞ心地よかったことだろう。だが、実態は問題が先送りされたにすぎなかった。そして、いまも似たようなことは起きやすい。

 危機に際して、責任を問う相手をまちがうと、本来は責任を負うべき人物や組織が温存され、あるいは、危ない人物や組織の暗躍を許し、公共の利益が失われる。天明の打ちこわしと、その後の田沼意次の責任の負わされ方は、現代に生きる私たちも教訓にするといいと思う。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。