イージス艦事故で“海自批判”に迎合… 石破首相の千葉・勝浦訪問で思い出す「防衛相時代の大失態」

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“特別な場所”を訪問

 小中学生の夏休みはすでに終盤だが、石破茂首相は多忙の束の間一息つけたのか。

 政治部デスクが言う。

「8月10日は終日、公邸で過ごしましたが、翌11日は午前中に識者との会食や報道各社のインタビューや打ち合わせがありました。12日には佳子夫人を伴って、毎年訪れている千葉県勝浦市を訪問しています」

 防衛庁時代を含め、防衛トップを2度も務めた石破首相にとって、漁港の街・勝浦は特別な場所とされる。

「石破首相は18年前、福田康夫内閣の防衛相に就任しました。組閣から5カ月後の平成20年2月19日早朝、千葉県南房総市沖で海自のイージス艦あたごと、地元漁協の漁船・清徳丸の衝突事故が起きたのです」

 当時の石破防衛相は、いまも防衛省・自衛隊で語り継がれる大失態を犯した。

「全長約165メートル、基準排水量7750トンの最新鋭イージス艦に対し、58歳の父と23歳の息子が操る漁船は全長約16メートル、7.3トンとあたごのおよそ10分の1の規模。メディアは一斉に海自の不手際の可能性を指摘しました」

 冬の海に投げ出された漁師たちの捜索は進まず、ほどなく事故発生から大臣への報告まで90分も要していたことが判明。大手メディアは海自批判に狂奔した。

「朝日新聞をはじめとする左派メディアは“気のゆるみがあったのではないか”“自衛艦側に責任がなかったとはいえまい”“目の前の漁船すらよけられないのなら、どうやって日本を守るのか”などと書き立てた。こうしたファクトを確認しない感情的に過ぎる海自批判に迎合したのが、他ならぬ石破防衛相だったのです」

「自身にとって政治的に有利な対応を」

 石破防衛相は、事故からわずか2日後の21日に勝浦に出向き、家族や漁協関係者らと面会。“大変にお騒がせしてご迷惑をおかけしました”などと謝罪した。傍らには制服組トップの海上幕僚長以下、多くの幹部を伴っていたとされる。

 海自の元幹部が回想する。

「責任の有無にかかわらず、事故で亡くなったお二人に、大臣以下、海自が哀悼の念を捧げるのは当然のこと。事故後の海自の対応にも問題はありましたが、石破大臣は衝突の原因がイージス艦か漁船か、どちらにあるのかが判然としない段階で謝罪されました」

 その理由は明らかで、

「“海自悪し”と決めつける世間の風向きを感じ取り、自身にとって政治的に有利な対応をお取りになった。大臣自らが組織への批判の先頭に立ったわけで、私たちはより激しい批判を受けることになりました」

 その後、あたごの乗員2名が業務上過失致死の容疑で告発されたものの、事故から5年後に無罪が確定。加えて、漁船側に回避義務があったことが認定された。

“後ろから鉄砲を撃つ”“自分だけ良い子になりたがる”とは、永田町でつとに知られた石破評だ。そんな石破首相の今後を元NHK解説委員で政治ジャーナリストの増田剛氏が解説する。

「本人は“行けるところまで行こう”と考えているようです。最大のよりどころは4割近くまで上昇した内閣支持率ですが、自身の“下ろし”に動くのが、裏金問題で処分された旧安倍派議員であることに、強く反発しています」

 自衛隊の最高指揮官たる石破首相の夏は続く。

週刊新潮 2025年8月28日号掲載

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