プロ初登板でとんでもない悲劇 防御率「135.00」に満塁被弾、危険球退場…いきなり“プロの洗礼”を経験した好投手たち

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 7月31日の中日対巨人で、延長10回にリリーフでプロ初登板をはたした巨人の2年目左腕・森田駿哉が、味方のエラーで1死満塁のピンチを招いたあと、サヨナラ犠飛を許し、デビュー戦でサヨナラ敗戦投手になった。巨人のプロ初登板投手がサヨナラ打を打たれ、敗戦投手になったのは、2リーグ制以降、球団初の珍事だった。初登板のリリーフで、いきなり“プロの洗礼”を体験した投手たちを振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】

僕は135から始まった男ですから

 まずデビュー戦でいきなり防御率135.00という驚くべき数字を残したのが、広島ルーキー時代の大野豊だ。

 1977年2月、軟式野球の出雲信用組合から広島の入団テストを受け、プロ入りの夢を叶えた大野は、同年9月4日の阪神戦、2対12と大差をつけられた8回に4番手としてプロ初登板のマウンドに上がった。

 最初は落ち着いているつもりだったが、プレーボールがかかり、1球目を投じた瞬間から、自分を見失ってしまう。

 先頭の島野育夫にいきなり中前安打を許すと、次打者・掛布雅之を遊飛に打ち取ったが、これがこの日唯一のアウトだった。

 直後、田渕幸一、川藤幸三に連打を浴びて1点を失い、佐野仙好にも安打を許したあと、片岡新之介に満塁本塁打を被弾。さらに中村勝広、投手の山本和行に連続四球を許したところで、降板が告げられた。

 自著「全力投球 我が選んだ道に悔いはなし」(宝島社文庫)によれば、KO後は「もう誰とも会いたくない。話したくない」気持ちになり、広島市民球場から寮までの約3キロを、涙を流しながら土手沿いの裏道を歩いて帰ったという。

 同年の登板はこの1試合で終わったため、防御率135.00がシーズン成績となった。

 だが、「これ以上悪くなることはない」と気持ちを切り替えた大野は、翌日の2軍降格後、「規定投球回数に到達するまで登板させてほしい」と直訴し、最終的にウエスタン7位の防御率2.66を記録。この前向きな気持ちが、翌年の1軍定着をもたらした。

 通算148勝、138セーブを記録し、1988年に沢村賞を受賞するなど、チームの優勝に5度貢献したレジェンド左腕は「僕は135から始まった男ですからね」とプロ野球人生の原点となったプロ初登板の日の屈辱をバネに、22年間の現役生活をまっとうした。

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