「“お前もパンツ脱げ”と…」 長嶋茂雄さん、大学の後輩が明かす“特殊過ぎる”練習方法 「後輩にも“君付け”でイビリは絶対にしなかった」
【全2回(前編/後編)の前編】
東京六大学野球の人気がプロ野球を凌駕(りょうが)した時代、神宮球場の大観衆は長嶋茂雄さん(享年89)の華麗なプレーに歓喜した。リーグ戦春秋連覇、通算8本塁打の新記録を引っ提げてプロ入りした長嶋さんの、立教大学野球部時代を共に過ごしたOBらが「スター伝説」を語る。
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「白い無地の練習着の長嶋さんが、レギュラー中心の全体練習に参加している様子を初めて目の当たりにして感動したことを、まるで昨日の出来事のように鮮明に覚えています」
そう語るのは、宮崎県立宮崎大宮高校出身で、立教大学では長嶋さんの1年後輩の徳永定俊さんである。
当時の立教大学野球部は100名以上もの部員が在籍する大所帯。甲子園出場経験のある有力選手などが全国から毎年20人以上も推薦で集まってくる。長嶋さんもその一人であった。
月夜の千本ノック
長嶋さんは、千葉県佐倉市の生まれ。入学した佐倉一高(現・佐倉高)は甲子園の出場経験がない無名校だったが、1953年夏、千葉県予選を勝ち抜き、南関東大会1回戦で敗れはしたものの、長嶋さんは埼玉県営大宮球場のバックスクリーン下に特大ホームランをたたき込んでプロのスカウトの目に留まる。
プロか大学か進路が注目されたが、父親は厳しい指導で有名だった砂押邦信監督の立教大学を望んだ。長嶋さんは54年、立教に進む。その頃の六大学野球はプロ野球をしのぐほどの人気があった。中でも人気と実力で早稲田と慶応、立教が花形チームであり、リーグ戦が行われる神宮球場は大観衆で溢れていた。
当時、立教の野球部グラウンドと智徳寮(合宿所)は東京都豊島区東長崎にあった。入寮できるのはレギュラークラスの有力選手だけ。寮生活の長嶋さんは、ひたすら野球漬けとなる。
「日々、砂押監督指導の下、たいへん厳しい練習を課せられていました。毎年、約50人が入部するが厳しい練習についていけず、卒業するまでに半数の部員が退部する。杉浦先輩(投手の杉浦忠。卒業後、南海ホークスに入団)をはじめ、多くの主力部員がへきえきして、大挙して合宿所からトンズラするハプニングもありました」(徳永さん)
砂押監督は「鬼の砂押」の異名をとり、猛烈なスパルタ指導で知られていた。日没後でも見えるようにボールに石灰を塗り、月夜の下でノックを浴びせた「月夜の千本ノック」は語り草になっている。
夜中の3時からノック
長嶋さんは1年の時からレギュラー入りするが、砂押監督から見ればまだまだ半人前である。原石はどうやって磨かれていったのか。
「野球部員は午前中授業に出て、午後から厳しい練習に耐える。監督の眼鏡にかなった長嶋さんは、全体練習後も個別に猛練習を課せられたし、ことあるごとに、監督は鉄拳制裁もいとわなかった。そうやって徹底的に鍛えられたおかげで、プロ野球選手としての基礎体力や精神力が培われたのだと思います」(徳永さん)
砂押監督にしごかれただけではない。長嶋さんは、自らも鍛錬を怠らなかった。
「私が1年の時、夜中の3時ごろに、長嶋さんから突然“今から頼むよ”とお声がかかり、ノックに付き合った思い出があります」
と語るのは、神奈川県の私立浅野高校出身で、長嶋さんの2年後輩となる諌山博義さん(87)。1年生で3番打者としてリーグ戦に出場。4番の長嶋さんとクリーンナップを組むことになる。
諫山さんによれば、長嶋さんは「一人で黙々と練習するタイプ」であったという。
「全体練習終了後、レギュラー部員は入浴と夕食を済ませ、午後9時ごろから夜間練習に入る。智徳寮の庭先で、野手陣は素振り練習をする。さて、長嶋さんはというと、バットを持って庭に出てくるも構えるだけで、一度も素振りをしないまま一人だけ部屋に戻ってしまうのです」
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