「生活のため」と割り切って練習した歌がヒットして… 上條恒彦さんが抱えていた“複雑な思い”【追悼】

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 物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は7月22日に亡くなった上條恒彦さんを取り上げる。

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歌手志望ではなかった

 1971年、上條恒彦さんがフォークグループ「六文銭」と組んで歌った「出発(たびだち)の歌」は、第2回世界歌謡祭でグランプリを獲得、今も名曲と名高い。語りかけ励ますような上條さんの豊かな歌声は心に響いた。だが、もともと歌手を志していたわけではなかった。

 40年、長野県朝日村生まれ。松本や塩尻の郊外にあたり農業の盛んな地である。

 小・中学校の同級生で、朝日村の前村長、中村武雄さんは振り返る。

「ごきょうだいは皆、歌が上手でした。彼は詩を書くのが好きで、声が通り朗読もうまい。優しくて穏やか、成績まで良かった」

 県立松本県ケ丘(あがたがおか)高校に進むと演劇に興味が深まった。

 演劇部で1年後輩にあたる大輪貴念夫さんは言う。

「木下順二さんの『木竜うるし』の舞台など学校の講堂しか演じる場所がないのがもったいなく感じたほど。演技の隅々まで配慮が行き届き、桁違いにうまい」

 58年、役者を志し上京するが苦戦。歌声喫茶でアルバイトをした時、本気でやれば歌で食えるようになると言われ、生活のためと割り切り猛練習。「出発の歌」で時の人となったのは31歳。上京から13年たっていた。72年、時代劇「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」も人気を呼ぶ。同年、紅白歌合戦に出場。

「歌が売れたから役者の仕事が来た」

 役者として見込んだのは山田洋次さんだ。テレビドラマ「遥かなるわが町」(73年)に倍賞千恵子さんの恋人役として起用。「男はつらいよ 寅次郎子守唄」(74年)ではひげ面で貧乏だが誠実なコーラスグループの団長という大役を任せた。

 抜てきに感謝する一方、歌が売れたから役者の仕事が来たと複雑な思いもあった。

 演劇評論家の大笹吉雄さんは言う。

「ミュージカルで重宝された。演技はできても歌が不安な役者が多い中、声に張りがあり得難い存在に。森繁久彌さん主演の『屋根の上のヴァイオリン弾き』で好演、86年には森繁さんの指名で役を引き継ぐほど信頼されていた」

 テレビでも「3年B組金八先生」の社会の先生役など引く手あまたの状態に。

「にじみ出る温かい人柄が持ち味でした」(大笹さん)

 歌手も続けていた。

「もっと流行を狙わないの、と直接聞いたことがある。いいんだ、俺はこれでいくと答えました」(中村さん)

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