大学時代に左手に巻かれた「赤い糸」 都内エリートサラリーマンの毒親家庭は一変したが…『運命リセット』 川奈まり子の怪異ルポ《百物語》

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あいまいな記憶のなかで

 当時、聡さんは家族と同居していた。彼が受験で東大に落ちてから、母は不眠と鬱症状を訴えて心療内科に通っていた。もちろん、父や妹とも、ろくに口を利いていなかった。

 いつものように暗い気持ちで玄関に入ると、美味そうな匂いが鼻孔をくすぐると同時に、廊下の奥から犬が――彼の愛犬が、犬族特有の笑顔で駆けてきた。

「ただいま、~~」

 彼は反射的に犬の名を呼んだ。だが、今の今まで犬は飼っていなかったはずであった。

 犬に限らず、この家でペットを飼った事実は一度もない。それなのに、なぜか咄嗟に名前が口を衝いて出た。

「おかえりなさい」と母が、ついぞ見せたこともない優しい微笑を浮かべて台所から現れた。

「おとうさんも今日は早かったの。夕ご飯まだでしょ。大学どうだった?」

 驚きのあまり一言も返せず、黙って震える足で2階の自室へ向かうと、ベッドの上にエレキギターが…。

「初めて触ったのに、そこそこ弾けたんですよ。まるで身体が記憶しているかのようでした」

 彼はAから貰った名刺を探したが、見つけられなかった。名前もわからない。聞かなかったのか、聞いたのに忘れてしまったのか…。そこで、後日、大学で占いサークルを探しあてて、訪ねてみた。しかしそこにAの姿はなく、また、日が経つに従って顔も思い出せなくなっていった。

愛犬とともにすべてを

 幸せな家族の日々は、およそ5年で断ち切られた。

 彼が23歳となった年、両親が交通事故で亡くなると、それから1年経たずに妹が肺炎をこじらせて20歳の若さで鬼籍に入り、その後、間もなく愛犬も急死してしまったのだ。

「独りになって、いっそ、せいせいしました」と彼は言う。

「結果が気に入ったら連絡してくれと、あのとき彼女は言いましたよね。でも、僕は、心の底から気に入っていたわけではありませんでした。だから彼女の名刺は消えてしまったのではないでしょうか? 幸福であればあるほど、違和感が激しくなり、昔の嫌な想い出が次から次へと蘇ってきて、とても苦しかったものです」

――例の赤い毛糸も、それまで捨てずに持っていたが、愛犬の亡骸を荼毘に付す際に、柩に入れて一緒に焼いてもらったとのこと。

 ***

 別記事「岡山の看護師が病棟で目にした“取り込み中の男女” 2人の姿に以前、目にした光景がフラッシュバックし……『話しかける者』」では、ごく自然に“見えないはずの何か”が見えるようになってしまった看護師の苦悩が描かれる。

川奈まり子(かわな まりこ)
1967年東京生まれ。作家。怪異の体験者と場所を取材し、これまでに6,000件以上の怪異体験談を蒐集。怪談の語り部としても活動。『実話四谷怪談』(講談社)、『東京をんな語り』(角川ホラー文庫)、『八王子怪談』(竹書房怪談文庫)など著書多数。日本推理作家協会会員。怪異怪談研究会会員。2025年発売の近著は『最恐物件集 家怪』(集英社文庫8月刊/解説:神永学)、『怪談屋怪談2』(笠間書院7月刊)、『一〇八怪談 隠里』(竹書房怪談文庫6月刊)、『告白怪談 そこにいる。』(河出書房新社5月刊)、『京王沿線怪談』(共著:吉田悠軌/竹書房怪談文庫4月刊)

デイリー新潮編集部

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