「アメリカの兵隊さん、こんにちは」…対米謀略ラジオで米兵に人気だった「東京ローズ」 唯一特定された日系二世女性の“数奇な人生“【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶

  • ブックマーク

米兵が「東京ローズはどこにいる」と

 昭和15年NHK入局の元アナウンサー、藤倉修一さんはかつてこう振り返った。

〈「敗戦間もない頃、受付から、米兵がアナウンサーがどうのこうの、と言っていると連絡がありました。私も敵機撃墜などと放送していましたから覚悟しましたよ。逞しい奴が5、6人来ましてね。東京ローズはどこにいる、と聞くんです」〉(「週刊新潮」2006年10月12日号「墓碑銘」より)

 戦時中の日本が1943年3月から始めた対米謀略ラジオ番組「ゼロ・アワー」(ラジオ東京。現在のNHKワールド・ラジオ日本)。この番組の女性ディスクジョッキー(DJ)は、南太平洋戦線の米兵たちから「東京ローズ」と呼ばれていた。

 実際には「みなし子のアン」などと名乗っていたが、ニックネームをつけられるほどの人気を博していたのだ。藤倉さんが証言したように、終戦後に米国側が「東京ローズ探し」を始めたこともその知名度を裏付けている。

〈「わざわざ探しに来るとは、放送が有名だったんだなと思いましたね」〉(同上)

戦意喪失の効果は薄かった

 東京ローズが米兵たちの心を掴んだ理由は、郷里の妻や恋人を思い出させるなど郷愁を煽るようなトークにあったようだ。ただし、収録時には台本が用意され、6名ほどいたといわれる東京ローズたちはそれを読む役に過ぎなかった。

〈「太平洋の戦線で戦っているアメリカの兵隊さん、こんにちは。わたしは“みなし子のアン”なの。みなさんが戦っている間、あなた方の奥さんや恋人はどうしてるとお思いですか? 戦時生産手当で懐の温かい本国の工員さんたちが、彼女らとすっかり仲よくなって、よろしくやっているのをあなたはご存じかしら……」〉(「週刊新潮」1989年1月26日「対米謀略放送『東京ローズ』の特赦以後」より)

『特赦 東京ローズの虚像と実像』(1978年)などの著作で知られるノンフィクション作家の上坂冬子さんによれば、

〈「戦意喪失の効果は薄かった。内容を憎むというより。むしろ娯楽として放送を楽しんでいたと言えます」〉(「週刊新潮」2006年10月12日号「墓碑銘」より)

開戦で帰国不能になった日系二世

 6名ほどいたという東京ローズのうち名前が判明したのは1名。大正5年にロサンゼルスで生まれた日系二世、アイバ・戸栗・ダキノ(戸栗郁子)さんである。両親は日本人で、カリフォルニア大学の大学院まで進む才女だった。

 1941年夏、親族を見舞うために来日したが、同年12月に太平洋戦争が開戦したことで帰国不能に。生活に窮し、NHKでタイピストとして働き始めたところ、1943年11月から「ゼロ・アワー」に出演することになる。

 番組でのトーク内容は前述の通りだった。そのせいか、アイバさんの罪悪感は薄かったという。加えて上坂さんによれば、アイバさんのアイデンティティはあくまでも米国人だった。

〈「戦時中、憲兵に日本への帰化を強要されても、米国市民権を守り抜いた。しかし、米国生まれの日系二世が宣伝放送に加担した、との米国側の批難と時代の熱狂に呑み込まれた」〉(「週刊新潮」2006年10月12日号「墓碑銘」より)

次ページ:米国で「国家反逆罪」に問われ

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。