見栄っ張りでも空回りでもいいじゃないか…「意識高い系」の若者をバカにしたツケ
2000年代中盤、「意識高い系」という言葉がしきりとメディアを賑わした。就職活動の学生を表すことが多かったが、今思うと実に陰湿かつ「出る杭は打たれる」を体現するとんでもない言葉だった。たとえば、このような学生が「意識高い系」として揶揄の対象になっていた。【中川淳一郎/ネットニュース編集者】
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「意識低い系」の発想
・サークルの部長やゼミの幹事長をしていた
・在学中から様々な社会人と会い、研鑽を積んだ
・インターンをした
・バックパッカーとして世界の様々な場所を回った
・ビジネスデザインコンテストに参加した
・ボランティアをした
・様々なイベントを企画し、多数の参加者を楽しませた
これらを見ると、なぜ揶揄されなくてはいけないのかが分からない。ただ単に「色々な興味を持って多方面に首を突っ込んで頑張った人間」でしかないのでは。一方、以下のような学生は揶揄されなかったのだ。
・サークルに入らず自分の趣味に没頭
・友人は不要で自分の心地よいことだけをやった
・サークルに入っていても平部員として存在
・基本的に授業には出るが、その後大学内の人間関係はどうでもよく、バイトに明け暮れた
この手の学生は特に高く評価されるわけではなかったが、揶揄はされなかった。そして、いわゆる「意識高い系」は「冷笑」の対象となった。定番の言葉は「色々やっているとは思うけど、所詮学生ができることなんて、社会人ができることとはレベルが違うんだよ。その程度の経験をよくもアピールできるね(笑)」ということである。
こうした時代を経て、日本は「失われた30年」に絶賛突入し、「給料上がらないからね~」「消費税を下げて欲しいよね~」程度しか一般庶民はもはや言うことがなくなった。自分から人生を切り拓くのではなく、お上が制度を変えて、少しでも自分にとって有利にしてくれることを期待する家畜的マインドに陥ったのである。
これは、「意識高い系」とは逆の「意識低い系」の発想だ。元々日本では松岡修造的アツい人物を冷めた目で見る傾向は強かった。それが「意識高い系」への揶揄で決定的になった。
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