「竹田宮が長崎の原爆“不発弾”をソ連に引き渡した」は事実か 旧日本軍の「当事者」が明かしていた衝撃真実「別の人物の単独行動」【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶
ソ連崩壊で世に出た“歴史の1ページ”
第1回【「日本に“第3の原爆”が投下されていた」の真相は…ソ連崩壊で表に出た“歴史の謎” 現地記者が入手した「突拍子もない内容の手紙」】を読む
【写真】足が吹き飛ばされた鳥居、崩れたレンガ…長崎の悲劇を伝える被爆遺構
長崎の原子爆弾は2個あり、1個は不発弾でソ連に引き渡された。しかも、引き渡した人物は竹田宮恒久王――。「関東軍がソ連に不発弾の提供を申し出た」と証言した人物、関東軍から大本営宛てに『ソ連大使館へ渡せ』と指示する密電など、いくつかの“証拠”とともに発掘された“歴史の謎”をご存じだろうか。実際は不発弾ではなく観測用のラジオゾンデであり、引き渡しは行われなかった。
この話が世に出たきっかけは、91年12月のソ連崩壊に伴う機密文書の流出である。そこで当時の「週刊新潮」(1992年4月30日号)は、ロシアと日本の当事者3人に取材を敢行し、貴重な証言を得ていた。第1回では、モスクワでこの話を発掘したロシアのジャーナリストの肉声を伝えている。
今回の第2回に登場するのは、核心を知る日本側の当事者2人。関東軍の密電に赤字で「不発弾ではない」と書き込みをした当の本人、さらにその人物から「ソ連に持ち掛けたのはあの人だろう」と名指しされた人物である。
後者はのちに『沈黙のファイル―「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)でも詳細な証言をするが、ここにご紹介するのは最初に語った“真実”となる。彼はいったいなぜ、不発弾の引き渡しを画策したのか――。
(全2回の第2回:「週刊新潮」1992年4月30日号「竹田宮がソ連に引き渡したという『第三の原爆』」を再編集しました。文中の年代、役職、年数等は掲載当時のものです)
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ラジオゾンデを不発弾と間違えて交渉?
モロゾフ氏は、目下、その第3の原爆の追跡を続けている真っ最中。が、驚くべきことに日本の防衛研究所戦史部にも、その不発原子爆弾に関する“密電”が保存されていたのである。
日付は昭和20年8月27日。関東軍総参謀長から大本営参謀次長宛てになっており、右肩に「軍事極秘」の印が捺されている。内容は、
〈長崎ヨリ東京ニ持歸リタル不發原子爆弾ヲ東京蘇聯(ソ連)大使館内ニ搬入保管シ置カレ度返〉
というもの。まさに、モロゾフ氏が言う関東軍の“密電”が日本でも保管されていたのである。そして、この電報には受け取った大本営の人間の手によると思われる“不發弾ニアラズ「ラヂオゾンデ」ナリ”という赤字の書き込みがなされている。
当時の事情に詳しい秦郁彦・拓大教授(現代史)が言う。
「シュピーゲル誌が“3発目の原爆“を報じたことはもちろん知っていましたが、実際にそういう交渉を示す電報が存在したというのは驚きです。やはり終戦後の大本営参謀次長宛ての電報だから、偶然残っていたんでしょう。
しかし竹田宮が新京へ飛んだのは、これは満洲国皇帝・溥儀を日本へ無事連れて帰るという歴とした目的がありましたから、直接ソ連軍と接触したというのは考えにくい。おそらく、他の誰かが“ラジオゾンデ”――原爆と一緒にパラシュートをつけて落とす観測器ですが――これを不発原子爆弾と間違えてソ連との交渉を行ったんでしょう……」
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