「竹田宮が長崎の原爆“不発弾”をソ連に引き渡した」は事実か 旧日本軍の「当事者」が明かしていた衝撃真実「別の人物の単独行動」【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶

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「ラヂオゾンデ」は私が書き加えた

 当時、陸軍省外務課外政班にいた完倉寿郎氏(78)=元陸軍少佐=は、関東軍から送られてきたこの“密電”を記憶に留めていた。完倉氏の述懐である。

「確かにかすかですが、その電報のことは覚えています。実は長崎に原爆が投下された直後から“不発弾”の話は出ていて、それは終戦直後に新聞にも紹介されたほどでした。おそらくこれを聞きつけて、ソ連との交渉に持ち出したのでしょう。当時、大本営から新京に飛んでそんな話を持ち出したのは、竹田宮ではなく陸軍中佐だった朝枝繁春氏しか考えられません。

 竹田宮は当時、宮田参謀と名乗っており、新京にいた期間、そしてそのお立場からもそういう行動をとったとは考えられません。おそらく朝技中佐の単独行動でしょう。その“「ラヂオゾンデ」ナリ”――という一文を電報に書き加えたのは私自身です。この“爆弾”はだから、ソ連大使館へ運び込まれたという事実はありません。しかし、それにしても今頃になって、こんな資料が見つかるとは……」

羽田で不発原子爆弾を見た

 完倉氏に名指しされた大本営参謀作戦課・朝枝繁春氏(81)=元陸軍中佐=は、神奈川県下で今も健在だった。その朝枝氏がこう語るのである。

「不発原子爆弾のことをソ連に持ちかけたのは確かに私です。ポツダム宣言受諾以後の特命を受けて参謀本部がチャーターした満航の飛行機で大陸に向かう時、羽田で梱包された不発原子爆弾を見たのです。確か、梱包に長崎からの不発弾と書いてあった気がしますよ。

 新京で、ソ連軍のカバリョフ大将とフェデンコ中将に、この不発弾の話をしてやったんです。私はその時、ヤルタ会議における米ソ交渉の中身を知らなかったので、米ソを対立構造に置くことによってのみ日本は復興できると考えていました。その構造を作為的に作り上げようと思い、不発原爆の引き渡しを持ちかけたんです……」

 ソ連崩壊という“嵐”が、はからずも日ソ間の埋もれていた歴史に一つの光を当てたことになる。

(以上、「週刊新潮」1992年4月30日号「竹田宮がソ連に引き渡したという『第三の原爆』」を再編集しました)

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実は密電を書いたのも朝枝氏

 1999年に出版された『沈黙のファイル―「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)には、この件を取り上げた項目がある。それによれば、密電の発信日時は1945年8月27日午前1時30分。関東軍の起案責任者(発信者)として署名したのは大本営参謀の瀬島龍三氏、あて先は大本営参謀次長の河辺虎四郎氏だった。

 上に掲載した「週刊新潮」の記事中にも登場した朝枝氏は、この本で「密電を書いたのも自分だった」と明かしている。8月18日に羽田空港で「ジェラルミンの円筒状の物体」を見たあと、「関東軍の作戦主任の瀬島参謀に頼んで打電してもらった」というのだ。朝枝氏はその前日(26日)にも馬海峡封鎖をソ連に提案し、「日本が米国の植民地になるという危機感に駆られ」米ソ衝突のシナリオを実現させようとしていた。

「週刊新潮」の記事中で「おそらく朝技中佐の単独行動」と指摘した完倉氏は、戦時中に関東軍参謀部の若い参謀としてソ連の軍事分析を行い、終戦の半年前に陸軍省に転任。戦争末期から終戦後までの陸軍を現場で見ていた人物である。そんな完倉氏だけに、届いた密電に「ラヂオゾンデ」と書き込んだその当時から、朝枝氏の単独行動に気付いていた可能性は否めない。

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 この話が明らかになったきっかけは、1991年のソ連崩壊だった――。第1回【「日本に“第3の原爆”が投下されていた」の真相は…ソ連崩壊で表に出た“歴史の謎” 現地記者が入手した「突拍子もない内容の手紙」】では、資料を発見したロシアのジャーナリストの肉声を伝えている。

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