「日本に“第3の原爆”が投下されていた」の真相は…ソ連崩壊で表に出た“歴史の謎” 現地記者が入手した「突拍子もない内容の手紙」【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶
元ソ連側の通訳が79年に書いた「秘話」
この新資料を発見したイーゴリ・モロゾフ氏は、元「コムソモリスカヤ・プラウダ」紙の記者。現在は独立してアフガン参戦軍人のためのロシア新聞「ペレバール」の副編集長を務めるかたわら、軍事ジャーナリストとしても活躍している。
「私がこの手紙を発見したのは昨年12月。ソ日間の戦争を調べるため、公文書館や資料館でいろいろな資料に当たっているうちに、ピョートル・チタレンコという人物に行き当たったのです」と、モロゾフ氏が新資料発見の経緯を語る。
「彼はモスクワ歴史学研究所で日本語を学んで軍通訳となり、終戦後、関東軍との交渉に立ち会った。この人が1979年になって終戦直後の関東軍との折衝秘話を手紙にまとめ、ソ連参謀本部情報局と党中央委員会宛てに書き送っていたのです」
残念ながらチタレンコ氏は3年前に病死。モロゾフ氏は、モスクワ市内のアパートに住む夫人を探し出し貴重な手紙のコピーを入手したのだった。そして、その手紙に書かれた秘話が実に突拍子もないものだったのである。
「我々は喜んでソ連に提供したい」
「関東軍投降と同時に、東京から長春(新京)へ天皇の投降命令の実施状況を監督するため大本営代表がやってきた。その使者の1人が8月23日か24日、ソ連軍の指揮を執っていたカバリョフ大将と面会し、通訳のチタレンコとの間で原爆引き渡しに関する会話をかわしていたのです」(モロゾフ氏)
チタレンコ氏が明かしたところによると、その会話はおおよそこんなものだったという。
〈「米国は原爆を3回投下した。1つは広島、2つを長崎に。しかし、1発は不発だった」と、使者は言った。そして、「我々はその不発弾を喜んでソ連に提供したい」と付け加えた。なぜソ連に原爆を渡そうとするのか、と私が聞くと、彼は「日本は米国に占領される。もし、原爆を米国が独占するならば日本は植民地となり、二度と立ち上がれなくなる。原爆をソ連も持ち、両者(米ソ)が同じような力を持てば日本は近い将来、再び復興できるからだ」と答えた〉
そして、チタレンコ氏はこの使者が、大本営から新京へ飛んできたプリンス竹田――皇族の竹田宮恒徳(竹田恒徳)氏、当時の大本営陸軍中佐――ではなかったかと、この中で述懐しているのである。
「不発弾をソ連大使館に搬入せよ」の密電
モロゾフ氏が続ける。
「この不発原爆の話があまりに突拍子のないものでしたから、私は最初、老人の幻想ではないかと思ったのです。ところが、取材を進めるうちにソ連の軍事史研究の第一人者、アカデミー会員のプロトニコフ教授が、これに類する資料を発見していることが分かった。
彼は、モスクワ州のポドリスクという町にある国防省公文書館で、関東軍から参謀本部へ宛てた“不発原子爆弾を在京ソ連大使館に搬入せよ”という電報を発見し、さらにモスクワの外務省対外政策公文書室で、在京ソ連大使館が当時の外務次官、ラゾフスキーに宛てた、“長崎から東京へ送られてきた不発原子爆弾とその資料をモスクワに送った”という内容の電報を見つけ出していたのです。少なくとも関東軍との間で、原爆引き渡し交渉が行われた事実は間違いありません……」
***
関東軍とソ連の“不発弾”引き渡し交渉、実際に臨んだのは竹田宮ではなかった。では誰なのか――。第2回【「竹田宮が長崎の原爆“不発弾”をソ連に引き渡した」は事実か 旧日本軍の「当事者」が明かしていた衝撃真実「別の人物の単独行動」】では、密電に「ラジオゾンデナリ」を実際に書き込んだ人物と、その人物から「あの人に違いない」と名指しされた人物の肉声をお届けする。
[2/2ページ]

