「日本に“第3の原爆”が投下されていた」の真相は…ソ連崩壊で表に出た“歴史の謎” 現地記者が入手した「突拍子もない内容の手紙」【週刊新潮が伝えた戦争】 #戦争の記憶
ソ連崩壊で表に出た“歴史の1ページ”
長崎に投下された原子爆弾は2個あり、1個は不発弾でソ連に引き渡された。しかも、引き渡した人物は竹田宮恒久王――。“歴史の謎”として時折注目されるこの説、出所は1991年12月26日のソ連崩壊に際して発見された資料である。
【写真】B29から膨大な数の焼夷弾が…原爆投下5か月前、焼き尽くされた東京
ロシアがロシア連邦としての一歩を踏み出すなか、次々と流出したソ連時代の機密資料は、モスクワに“歴史発掘”ブームを巻き起こした。そこで発見されたのが「長崎の不発弾」に関する新資料だ。「関東軍がソ連に不発弾の提供を申し出た」「関東軍から大本営宛てに『ソ連大使館へ渡せ』と指示する密電が存在する」といったその内容がドイツ誌に掲載されると日本に衝撃が走る。
とはいえ先に種を明かすと、日本側が話を持ち掛けたのは事実だが、引き渡しは行われていない。なぜなら不発弾ではなく、原爆の威力等を測定する「ラジオゾンデ」だったからだ。発見された関東軍の密電にも赤字でそう書かれている。
この話が世に出た1992年当時、「週刊新潮」は新資料を発見したロシアのジャーナリスト、密電に「ラヂオゾンデナリ」と赤字で書き込んだ当の本人、さらにその人物から「ソ連に持ち掛けたのはあの人だろう」と名指しされた人物から貴重な証言を得ていた。
ここにご紹介するのは彼らが最初に語った真実である。第1回では、新資料を発見したロシアのジャーナリストが発見の経緯を明かす。病死した元通訳の老人が書き残した「突拍子もない内容の手紙」とは――。
(全2回の第1回:「週刊新潮」1992年4月30日号「竹田宮がソ連に引き渡したという『第三の原爆』」を再編集しました。文中の年代、役職、年数等は掲載当時のものです)
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“3個目”の原爆の存在を証明するものは皆無
かつての機密資料が次々流出していく中で、モスクワは目下、ちょっとした“歴史発掘”ブームだ。そんな中で、ソ連のジャーナリストが驚くべき資料を発見した。曰く、「長崎に落ちた不発原子爆弾がソ連に引き渡されていた」という。
この新資料発見をいち早く報じたのは、ドイツの『シュピーゲル』誌。その3月2日号で、
〈第二次大戦後、ソ連軍と関東軍との通訳に当たっていたピョートル・チタレンコが1979年、“関東軍が1945年8月、長崎への原爆不発弾をソ連に提供したいと申し出ていた”という事実を暴露する手紙を、ソ連参謀本部情報局と共産党中央委員会に送っていた。発見したのはソ連の軍事ジャーナリスト、イーゴリ・モロゾフ氏。モロゾフ氏は、関東軍から大本営宛てに“不発弾を保管のため、すぐに東京のソ連大使館へ渡せ”という内容の密電が存在したことも掘り起こし、その“第3の原爆”の信憑性を高めている〉
などと報じたのである。
長崎へ落とされた原爆が実は2個あり、1発が不発だったことが事実ならば、これは確かに大ごとである。しかも、その不発弾がソ連へ本当に渡されていたのなら、戦後の東西冷戦の力関係に直接影響を与えたことは間違いない。
が、歴史研究家によれば、「長崎へ原爆が2個落とされたという記録は、米国の公文書も含めてどこにも存在しない」。というわけで、“3個目”の原爆の存在を証明するものは皆無なのである。
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