命綱を付けた隊員が濁流に…13人が命を落とした99年「玄倉川水難事故」 警察・管理事務所・地元消防団はどう動いたのか

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放流を止め続けるとダムが決壊して大惨事

 救助にヘリコプターは使えなかったのか。神奈川県警によれば、

「午前10時10分から30分にかけて、神奈川県や地元の消防組合から、県警、自衛隊、横浜と川崎の消防局にヘリの出動要請が打診されていますが、あの雨では、いずれも不可能だった。航空法で、高度3000メートル以下を飛行する場合、視界が5キロあることが条件になりますが、横浜市内でも視界は100メートル以下だった。仮に飛ばしたとしても、山間部の飛行経路は限られ、より視界が狭く二次災害の恐れが高かったと思います」

 ならば、ダムの放流を止めることはできなかったのか。管理事務所の所長はいう。

「10時半から、警察からダムの管理をしている主任のところに2、3度電話が入って、放流を止めてほしいという要請がありました。その頃には、毎秒100トンの放流があって、流れが最高に激しくなっていました。しかし玄倉ダムは、洪水の調整能力のない小さいダムですから、止めるわけにはいかないと断ったんです。

 しかし10時50分頃に、私のところに警察から“何でもいいから止めてほしい”という連絡が入ったんです。その時には、多少、満水よりは少ない貯水量になっていました。そこで事態が切迫しているというので、午前11時に超法規的に放流を止めたんです。しかし5分が限度でした。あのまま放流を止めていたら、ダムが決壊して大惨事につながる恐れがあったんです」

中州のすぐ下流には渦ができていた

 すでに万策は尽きていた。放流を止めたわずかな時間、流れは遅くなったように見えた。が、放流を再開した30分後の11時半、ひときわ激しい濁流が18人に襲いかかったのである。もはや生死を分けるものは偶然でしかなかった。地元消防団員はいう。

「中州のすぐ下流には、渦ができていました。18人は、その渦にのみ込まれましたが、子供1人は、流される瞬間の大人が岸に向かってその子を投げ出したので、岸の方に流れていって救出された。さらに3人は流されるままに、うまく対岸の岩や木にしがみつくことができて助かったのです。まさに明暗を分けた一瞬でした」

 5人が九死に一生を得たが、12人が遺体で発見され、今なお1人が行方不明である。(※記事が執筆された1999年8月23日現在。13人目の遺体は同月29日発見)

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 避難勧告の巡視は前日の午後から行われていた――。第1回【放流に備えて「早めに呼びかけた」…18人が濁流にのまれた99年「玄倉川水難事故」、空襲警報のようなサイレンと繰り返された退去要請】では、雨足が強まった前日の夜までの様子を伝える。

デイリー新潮編集部

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