「奪還」の代償に背負った“巨額の借金”……朝鮮半島から「6万人の日本人難民」を脱出させた「引き揚げの神様」の過酷な戦後史

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 日本の敗戦まもない朝鮮半島で、自らの命を賭して6万人もの在留邦人を救出し祖国へ導いた一人の男がいた。彼は、脱出工作を遂行するために工面した多額のお金を「個人的な借金」として抱えることになり、帰郷後も返済に追われる。そして彼の家族も――。『奪還 日本人難民6万人を救った男』に収めきれなかった、哀切の後日譚をお届けする。【城内康伸/ノンフィクション作家】(全2回の第2回)

 第1回【「日本のシンドラー」はもう1人いた…戦後混乱期に「邦人難民6万人」の命を救った「名もなき英雄」の原動力とは】の続き。

忘れ去られた「英雄」

 80年前、日本の敗戦がもたらした植民地支配から解放された朝鮮半島。国家という枠組みが崩れ落ちた異国の地で、祖国への帰還はおろか、誰もが命を繋ぐことに必死だった時代に、日本人を救い出すために奔走した男がいた。

 松村義士男(ぎしお)。その手に導かれ朝鮮半島北半部(北朝鮮)脱出した日本人難民の数は約6万人にも及ぶが、帰国後の松村を待っていたのは喝采とは程遠い現実だった。私財を投じた脱出工作の負担は、彼自身だけでなく、家族をも苦しめた。「引き揚げの神様」とまで呼ばれた無名の英雄の戦後史は、思いがけず切ない物語でもあった。

 戦後、北朝鮮に取り残された日本人は約25万人。松村は進駐したソ連軍や北朝鮮当局者との困難な交渉を続け、大規模な脱出作戦を計画。脱出ルートを整備し、北朝鮮北部や東海岸に取り残された約6万人を次々と北緯38度線の南側へ送り届けた。

脱出工作で背負った「多額の借金」

 1946年秋、ソ連軍による日本人の本国送還の正式な方針を確認すると、松村は脱出工作を停止。同年暮れ、送還船の一員として帰国の途に就いた。北朝鮮を離れる4日前に35歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 松村は熊本に帰郷して間もなく、長女と次女、そして、松村より10歳ほど若く内縁関係にあった三宅敏子という女性と4人で宮崎県延岡(のべおか)市に移住。正妻だった止子(よしこ)とは1949年に離婚している。

 延岡では土建業「松村工務店」を開業。表面的には成功を収めているかに見えた。だが実は、松村を大いに苦しめていたものがあった。それは脱出工作に使うために借り入れた資金の返済だった。

 松村が緊密に連絡を取っていた京城日本人世話会会長の古市進(ふるいち・すすむ)宛の1946年6月24日付の手紙には次のような記述がある。

〈資金関係は、元山の松本氏より報告ありたるものと思わるるも、その後、元山社会主義同盟一派の持ち逃げ等により、元山松本会長も苦悶中なり。愚生もやむを得ず、非常手段に訴え、内鮮結婚資産家の内地渡航を条件として、現在まで四十一万二、000円を得たり〉

 元山(ウォンサン)は北朝鮮東海岸の中核都市。終戦後、北朝鮮に残された日本人の預貯金はソ連軍により凍結され、資金不足が深刻化していた。このため、日本人の脱出を支援するための資金確保は各地の日本人救援団体にとって喫緊の課題だった。元山日本人世話会も例外ではなかった。

「社会主義同盟」というのはソ連軍や朝鮮側との交渉を円滑に進めるために、元山日本人世話会内に結成された団体。しかし、この団体のメンバーが世話会の資金を持ち逃げしたことで、会の財政状況は悪化する。

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