「奪還」の代償に背負った“巨額の借金”……朝鮮半島から「6万人の日本人難民」を脱出させた「引き揚げの神様」の過酷な戦後史
「38度線封鎖」が生んだ不慮の負債
この事態を見かねた松村は、日本人女性と結婚した朝鮮人資産家から41万2000円を借りることに成功した。この金額は現在の約1600万円に相当する。資産家は、自身とその配偶者が日本に渡航後、日本国内で資金を返済してもらうという条件で松村の申し出を受け入れた。
京城日本人世話会も同年4月、元山日本人世話会からの要請を受け、40万円を上限として債務を引き受けることを約束していた。松村が借りた41万2000円のうち40万円は京城日本人世話会が保証する金額にあたるが、残りの1万2000円は利息として資産家が上乗せしたとみられる。
松村が資産家から借りた金を返すためには、借り入れの証明書を京城日本人世話会に提出し、必要な支出を認めてもらう必要があった。彼は手紙で必要書類を送付したと記しているが、実際には古市の手元には届いていなかった。これは北緯38度線の封鎖による南北間通信の困難が原因と考えられる。
その結果、松村が一時的に立て替えた41万2000円は、帰国後も債務として彼に重くのしかかることとなった。
家族を残して「突然の家出」
延岡での生活も15年ほどが過ぎたとき、松村は思いがけない行動に出た。2022年1月に松村の長女から著者に届いた手紙によれば、彼女が22歳のとき、家族を延岡に残して「突然家出した」のだ。84歳になる長女はいま、山口県内の高齢者施設に身を寄せる。手紙には続きがある。
〈数年後、大阪の病院で脳梗塞で入院していた父に再会。ほとんど意識はなく、私たち(母、私、妹)が分かったのかも定かではないまま息を引き取りました〉
1967年3月、松村は大阪市城東区の総合病院で、55年の生涯を閉じた。なぜ晩年を大阪で過ごしていたのかは、謎のままだ。
彼の遺骨は熊本の市営墓地にあった松村家の墓に埋葬されたが、約15年前に墓じまいが行われた。一家の遺骨は市内の寺院に引き取られ、永代供養に付された。いまや墓地に松村の跡形はなく、記憶だけがひっそりと残されている。
松村が病床に伏している間に、延岡の事務所と自宅は失われ、死後には多額の借金だけが残った。
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