「奪還」の代償に背負った“巨額の借金”……朝鮮半島から「6万人の日本人難民」を脱出させた「引き揚げの神様」の過酷な戦後史

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借金返済に尽力した「姉さん」

 その重圧に耐え、残債の返済に奔走したのは内縁の敏子だった。敗戦後、化学コンビナート「日本窒素」興南(フンナム)工場のあった北朝鮮中部の興南で、日本人の救援活動を通じて松村と交流を深めた鎌田正二氏の手記によると、敏子は博多の花街に育ち、三味線の名手。その腕を生かして松村の死後まもなく、山口市の湯田温泉に居を移し、「糸子」という名で座敷に出て稼いだ花代を返済に充てていた。

「姉さん(敏子)が湯田温泉に来たのは旦那さんが亡くなってから。40代後半ぐらいだったです。最初は姉さんだけが来て、私の家で寝起きしよった。あとで来た二番目の娘さんは最初、別にアパート借りていた。そのうち、上の娘さんが来て、姉さんは私の家を出て3人で住むようになった」

 そう語ってくれたのは、敏子が所属していた検番「中村席」の養女、中村佐代子さんである。

「姉さんは三味線と唄が本当にうまかった、恰幅が良くて、べっぴんさんやった。嫌みのない人だったから、人気がありました」

 湯田市街には、松村の二女が「まつむら」という喫茶店を開いた。しかし、1971年に26歳の若さでがんのために倒れた。このため、それまで看護士だった長女が店を継いだ。

 中村さんによると、敏子は「まだ元気なうちに(芸妓を)辞めた」というが、入手した湯田温泉の「芸妓表」によれば、1986年時点では現役だった。そして、21世紀を目前に78歳で息を引き取った。常連客で賑わった「まつむら」もやがて扉を閉じた。

 中村さんの案内で、敏子と娘2人が暮らしていた家を訪ねた。トタン屋根のプレハブ平屋が6棟並ぶ一角。今は空き家になった1棟の窓から覗くと、手狭な畳部屋3つと小さな台所が見えた。女3人が肩寄せ合い、静かに、そして懸命に生きた痕跡がそこにあった。

 敗戦後の混乱期にその身を賭して「究極の利他」ともいうべき救出劇を成し遂げた松村も、平時にはその輝きを失い、家族に多大な試練を与えた。時代が人間に使命を与え、また試練をも与えるのか。「引き揚げの神様」とその家族がたどった戦後史には、どこか人間の真実に触れる匂いも漂う。

 第1回【「日本のシンドラー」はもう1人いた…戦後混乱期に「邦人難民6万人」の命を救った「名もなき英雄」の原動力とは】では、松村義士男が貫いた「利他の精神」の原点に迫っている。

城内康伸(しろうち やすのぶ)
1962年、京都市生まれ。中日新聞社入社後、ソウル支局長、北京特派員などを歴任し、海外勤務は14年に及ぶ。論説委員を最後に2023年末に退社し、フリーに。著書に『シルミド「実尾島事件」の真実』『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男 「東声会」町井久之の戦後史』『昭和二十五年 最後の戦死者』(第20回小学館ノンフィクション大賞優秀賞)『金正恩の機密ファイル』『奪還 日本人難民6万人を救った男』など。

デイリー新潮編集部

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