「日本のシンドラー」はもう1人いた…戦後混乱期に「邦人難民6万人」の命を救った「名もなき英雄」の原動力とは

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18歳のときに生活が一変

 しかし、その生活は、松村が18歳のときに一変する。嘉次郎が45歳で急死したのだ。

「事業をやっていると借金もあるじゃないですか。父(正清)は、(嘉次郎が)亡くなると(借金取りが)やってきて、家財道具に片っ端から赤紙をベタベタ貼っていたと記憶していました。それまでは、おばあちゃま(嘉次郎の妻・ミヨ)も奥様然としていたけど、和裁とか始めて、みんなを食べさせるのに大変だったって」

 草原さんの証言からは、華やかな暮らしから貧困へと転落していく一家の様子が生々しく伝わってくる。この経験が、後の松村の行動に影を落とし、また深みを与えたのではないか。

 1932年4月、松村は北朝鮮中部・興南(フンナム)にあった化学コンビナート「日本窒素」興南工場で、朝鮮人労働者と労働組合の結成を試みたとして検挙される。左翼思想に傾倒した若き日。4年半後には大阪で共産党再建活動に関与したとして再び逮捕・起訴された。

 その後、松村は再び朝鮮半島に渡り、興南に隣接する北朝鮮第二の都市・咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムン)に拠点を移す。建設会社「西松組」(現在の西松建設)に勤務し、朝鮮および中国人労務者の管理を担当していた。義兄が、同社の土木工事現場監督として名を馳せていた縁によるものである。

『西松建設創業百年史』の記録などと照らし合わせてみると、松村が従事した工事には、帝国陸軍朝鮮軍の連浦ホ(飛行場)工事や、日本窒素の創業者・野口遵が設立した朝鮮水力電気による水力発電所建設などが含まれている。

2歳で息を引き取った息子、そして、弟も

 1941年1月、松村は坂本止子(よしこ)と入籍。まもなく長女と長男が生まれ、戦争の暗雲が立ちこめるなかにも、ささやかな幸福の時間が訪れる。

 しかし――それは束の間だった。1945年2月、長男・隆一が2歳で夭折した。止子が里帰りしていた鹿児島県出水郡(現・出水市)の実家での悲劇だった。

 追い打ちをかけるように、そのわずか1年後の1946年1月には、咸興で同居していた末弟・元日出が息を引き取る。24歳の若さだった。草原さんは語る。

「(元日出は)もともと身体が弱く、左右両利きの器用さを活かして自宅で和裁を職としていた。仕立てた時の残り布を使って私にもモンペを縫ってくれるような、優しいおじさんだったそうです」

 敗戦の混乱の中、その優しさの記憶とともに、遺骨は祖国へ帰れぬまま、咸興の土に葬られた。

 松村が北朝鮮に取り残された日本人たちの脱出に乗り出すのは、ちょうどその直後である。

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