「日本のシンドラー」はもう1人いた…戦後混乱期に「邦人難民6万人」の命を救った「名もなき英雄」の原動力とは

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 第二次世界大戦下、ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーは1200人ものユダヤ人の命を救う。一方、戦後まもない朝鮮半島で、自らの命を賭して6万人もの在留邦人を救出し祖国へ導いた一人の男がいた――。書店に並んだ1冊のノンフィクション書籍が、期せずして「男」の血縁者の目に触れ、謎に包まれたその実像に一歩踏み込む好機に繋がった。【城内康伸/ノンフィクション作家】(全2回の第1回)

6万人を「奪還」した男の親族との出会い

 今から80年前――。朝鮮半島の北部に、国家の後ろ盾もなく取り残された日本人たちのために、自らの命を顧みず奔走したひとりの民間人がいた。

 松村義士男(ぎしお)。昨年、彼の壮絶な脱出工作を描いたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』を上梓したが、その執筆段階ではたどり着けなかった親族への取材が、出版後になってようやく実現した。

 そして、話を聞けば聞くほど、松村の中にあった強い使命感の背景には、彼自身の青年期に刻まれたさまざまな経験が深く影を落としていたことが見えてきた。

 1945年8月、日本が敗戦を迎えると、朝鮮半島北半部(北朝鮮地域)には戦前から生活していた約25万人の日本人が取り残された。北朝鮮に進駐したソ連軍は、一方的に北緯38度線を封鎖し、南北の往来を不可能にした。北側に取り残された残留邦人は、ソ連軍の厳しい監視の下、食料も医薬品も不足する中で、飢餓や感染症に苦しむ日々を強いられた。

 そのような極限状況の中、松村はソ連軍や北朝鮮の当局者と繰り返し交渉を重ね、鉄道や漁船を用いた大規模な脱出計画を実行に移す。北朝鮮北部から東海岸にかけて取り残された日本人約6万人を、次々に38度線の南へと送り出した。「引き揚げの神様」と呼ばれた彼の行動は、命をかけた自己犠牲と人道的な使命感に支えられたものであり、いまなお語り継がれるべき歴史の偉業である。

『奪還』
城内 康伸 著

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「アンタッチャブルな印象が強かったんです」

「親戚の間では、なんとなくアンタッチャブルな印象が強かったんです。そんな人がこんな立派なことをしていたなんて。にわかにアドレナリンがどっと出ました」

 そう語るのは、松村の功績を知った彼の又姪にあたる米盛千裕さんだ。戦前、松村は左翼思想に傾倒し、治安維持法違反で二度にわたって検挙されていた。そのため、一部の親族の間では、彼はどこか「あまり深く詮索しないほうがよい親戚」のような存在として扱われていたというが、米盛さんは拙著で松村の功績を知ったそうだ。

 松村は1911年12月、熊本県に生まれた。8人きょうだいの三番目、次男である。地元の尋常小学校を卒業すると、日本の支配下にあった朝鮮半島へと渡った。父・嘉次郎の後を追って、北朝鮮東海岸の中部、元山(ウォンサン)の地に移り住んだ。

 嘉次郎は1885年生まれ。嘉次郎の三女・ユーキが1917年10月に咸鏡北道(ハムギョンプクド)城津(じょうしん、現・金策)で生まれていることから、それ以前に朝鮮に渡ったと考えられる。

 嘉次郎の事業は順調で、「実業家として製材所のほかに映画館も経営していた、と聞いています」と語るのは、嘉次郎の孫にあたる草原朋子さん。嘉次郎の三男・正清の長女であり、前出した米盛さんの母である。

 1926年には「合資会社松村工作所」なる企業も、元山の地に登記していた(京城商工会議所発行『朝鮮会社表』による)。業種は電気メッキ。事業の多角化ぶりがうかがえる。

「(嘉次郎には)子供がいっぱいいたけど、その一人ひとりに朝鮮人の女中さんが付いていた」と草原さんは言う。当初の暮らしは、かなり裕福だったようだ。

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