「総SNS時代」に分断を呼ぶ「推し」と「アンチ」にならないために…「江藤淳」と「加藤典洋」に学ぶ“間”に留まる生き方のススメ
間に立つ人間の不在
推しでもなくアンチでもなく、その中間で考えること。それこそが、かつて文芸評論家が担っていた仕事だったと與那覇氏は言う。そしてその機能が、現代では失われてしまっているとも。
「作家がある小説を書き上げても、それがこの世界でどんな意味を持つのか、すぐにはわかりません。かつては文芸評論家が率先して作品を読み、『文学史的にこういう位置付けと意味を持つだろう』と読み解き批評することで、読者が納得のいく解釈を提供しました。つまり、作者と読者の間をつなぐ仕事を、文芸評論家がやっていたのです。ところがいまは、『総SNS時代』『総動画時代』となっており、作家本人がインターネット上で『この本で言いたいのはこういうことです』と発信することができる。つまり、間に入る人の消滅です。その結果、『本人が言っているんだから従え』という推し的な没入か、『こいつマジ嫌いだから何を言っても認めねえ』というアンチ的な反応かの二極化が生じているのが現代でしょう」
間に立つ人間の不在は、社会が分断される要因になると、與那覇氏は見ている。
「この風潮が文学のみならず、政治の世界にまで広がっています。トランプ大統領はウクライナと中東の戦争や関税問題で我が道を進んでいますが、その反応としては『トランプ、よくぞやった』という人と『絶対に許さない』という人で真っ二つになっている。そこに賛否の結論は読者に委ねつつ、『たぶん、トランプが人類史に残すのはこういうものだ』……などと、間に入って論評する人がいれば、冷静な視点を取り戻すことができる。それが本来、批評が担うべき役割だったと思うのです」
漱石こそ文学者の原型
いまの時代にこそ「間に入る存在」が重要であり、評論・批評はその役割を担い得る。では、なぜいま與那覇氏は、本書『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』で、文芸評論というジャンルに乗り出したのか。文学を論じることで時代や社会と接続できるのだろうか。
「江藤淳の活躍した時代にSNSやYouTubeはなく、情報源はずっと限られ、新聞などに載る文芸時評がいまよりずっと重視され、文学作品を読み解けば時代がわかるものだと信じられていました。そうした文学への信頼感を体現していたのが、文芸評論家・江藤淳という存在です。江藤淳は評論家として、夏目漱石研究から出発し、最後まで漱石を描こうとしました。江藤さんにとっては、漱石こそ文学者の原型。夏目漱石はもともと大学で英語の先生をしており、国費でロンドン留学もしています。当時の先進国である英国に学び、近代化をはかる日本の担い手として期待されていました。
小説家に転じてからも、執筆を通じて変わりゆく国や社会を担い、警鐘を鳴らすのだと。江戸から明治の転換期にそんな生き方を貫いた漱石に対して、戦前から戦後の大転換期に同じ役割を担おうとしたのが江藤淳だったのだと思います。漱石は、日本の近代化が一筋縄でいかないことを見抜き、この問題を悩みながら掘り下げていきます。江藤さんはそれを戦後社会でやろうとした。米国に降伏した後、日本にも米国流の民主主義が取り入れられていきますが、その様子を見ながら江藤さんは、これはどこか無理があるんじゃないかと考え、その違和感を文芸評論のなかで展開していったのです」
思えばかつては国家社会に関わる問題が生じると、文学者や評論家が積極的に発言をしていたものだった。現在では文学者がそうした役回りを演じることは、ずいぶん少なくなっている。
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