【原爆投下から80年】至近距離で被爆、「22度のがん」を乗り越え「原爆の恐ろしさ」を訴え続けた「兒玉光雄さん」の壮絶な人生
黄金の火柱を――
原爆投下前日の8月5日、午後9時20分に警戒警報、その7分後には空襲警報のサイレンで寝入りばなをくじかれた。標的になることから電気を点けることは許されず、真っ暗闇の中で家族は息をひそめた。B-29は広島の上空を旋回しただけで去った。11時55分に空襲警報が解除。家族が再び床に入った午前0時25分、再び空襲警報。しかし、何も起きないまま、2時10分に解除となった。
迎えた8月6日。兒玉さんは眠い目をこすりながらの起床となった。同級生の土井隆義さんと会い「眠いのう」「アメ公め、わしらを寝かせんつもりじゃ。ほんに、憎たらしいのう」と会話しながら、学校へと向かった。
〈二人は空を見上げた。雲ひとつ見えない晴天で、太陽はまだ低い位置にあるのに、熱い日差しを投げかけていた。戸板駅から汽車に揺られ、広島駅に着いてからは徒歩であった。(略)しばらくすると、長いサイレンが響いた。警戒警報だった。
「どうする?」
どちらともなく、声をかけた。街のあちらこちらに掘られている防空壕に、身を寄せることを考えたのである。しかしそれでは七時半の集合時間に間に合わなくなってしまう。空襲警報ならともかく、警戒警報で遅れたとなれば、教員の鉄拳が飛び、同級生から笑われてしまうかもしれない。当時は、そんな空気だった。
「急ごう」
二人は、さらに歩を早めた〉
午前7時31分、警戒警報は解除された。「上空に敵機なし」というラジオ放送を確認した教員たちが、中庭にあつまった生徒たちの点呼を始めた。この日は空襲に備えて建物を壊して防火帯をつくる疎開作業にあたるとともに、学徒動員で中止となっていた授業の補習内容が発表されることになっていた。土井さんは歩いて疎開作業現場へ、待機組の兒玉さんは教室に向かった。
〈光雄の一六組は賑やかだった。生徒たちは時間割をノートに写し終えると、好き勝手に移動し、気の合う者同士で雑談にふけっていた。普段は軍隊式の礼儀作法に縛られている生徒たちも、教員や上級生の目のない教室で自由に振る舞っていた。(略)外の陽射しは時間とともに強さを増し、セミの声が重なり合ってエコーのように響いていた。そこに「ブゥー」という低音が覆い被さった。
「お、Bじゃ」
誰ともなく、声が上がった。B-29である。
「警戒警報もないのに、おかしいのう」
生徒たちは、敵機の出現に慣れてしまっていた。どんどん近づいて来るのが、音で分かった。
「おい、見に行こう」
何人かが、北側の廊下に向かった。他の教室からも何人か飛び出していったようである。「おおい、落下傘か何か落としたで」と叫ぶ声が聞こえる〉
この時、兒玉さんも同級生から外に行かないかと誘われる。椅子から腰を上げたとき、「どけ」「ええから、みせろや」と騒いでいる一団が気になった。学校に持ってきてはいけない雑誌、「少年倶楽部」を何人もの生徒が上か横からのぞき見していた。「わしにも見せてみい」と兒玉さんが一団に割り込んだ、その瞬間――。
〈右眼に黄金の火柱を見た〉
[2/4ページ]


