「愛子さま」初の海外公式訪問前に高まる期待 改めて「歴代女性天皇」の功績を検証する
古代と江戸時代の違い
元明天皇(43代)は、奈良の平城京に都を移し、最初の流通貨幣と言われる和同開珎を造らせている。独身で即位した初の女帝・元正天皇(44代)は上皇として、病気がちで政治の舵取りがままならなかった聖武天皇に代わって実務に当たった。
一方で、孝謙天皇(称徳天皇=46・48代)は、激動の道を歩む。皇室史上唯一の女性皇太子を経て即位。悪僧や怪僧の異名を残した道鏡を寵愛し、再び皇位に就いた際は、これも皇室史上で唯一の出家したまま即位した天皇となった。その波乱万丈な生涯は映像作品などでも描かれ、NHKドラマ「大仏開眼」では、俳優の石原さとみさんが内親王時代を演じている。
天皇家が政治権力から遠ざけられていた江戸時代に即位した明正天皇(109代)と、後桜町天皇(117代)は、実績と呼べるものがほぼない。徳川幕府を嫌った後水尾上皇の娘で、お飾りに過ぎなかった前者と、5歳の後継者にタスキをつなげるための中継役だった後者。鎌倉幕府や江戸幕府という、武士が頂点に立つ武家政権が長年続いた中で、とりわけ男尊女卑が底辺にある儒教を徳川家が重視したため、江戸時代に男女差別が定着したという事実が、背景にはあった。
女性の天照大御神を祖先と位置付ける天皇家が、政治を牛耳った親政下の古代(古墳時代~平安時代)には、女性天皇が実権を握っても特段の違和感はなかった。宮内庁書陵部OBの元職員はこう語る。
「天皇を中心に公家が政治を差配していた時代から、武家が支配する時代に変貌する中で、天皇の立場にも大きな変化があった。それは女性天皇も例外ではなく、むしろ時代変動の影響がより大きかったのが女性天皇の立場だったということです」
戦後になって、神武天皇(初代)と、「欠史八代」と呼ばれる8人の天皇は実在したのか、疑問視されるようになり、崇神天皇(10代)が初代もしくは神武天皇と同一人物との説が有力と考えられるようになる。これが「第10代崇神天皇以降実在説」だ。
同様に有力視されているのが、応神天皇(15代)を初代天皇とし、それ以前の天皇を架空とする「第15代応神天皇以降実在説」である。つまり初期の天皇は存在自体が考古学上も史学上もはっきりしていないのだ。一方、神功皇后は第14代とされる仲哀天皇の皇后。だが明治時代までは夫の死後、第15代の天皇になったと認定されていた。朝鮮半島に打って出て制圧した「三韓征伐の伝説」はよく知られる通りだ。
抹消された女帝の存在
だが、大正時代になると一転して「天皇ではなかった」と結論付けられることとなる。日本の史書だけでなく中国の史書にも天皇と位置付けたものがあるが、天皇中心の政治体制を完成させる過程で、歴代天皇を整理。神功皇后の即位説は否定され、あくまでも摂政だったという説が正当化されたのだ。前出の元職員はこう推測する。
「江戸時代に定着した男尊女卑の考え方と、歴代天皇には神話の要素が相当含まれている事実を考慮すれば、神話に過ぎない可能性がある天皇は排除されず、女帝は排除されたことには意図があるはずです」
令和へのお代替わりを前に「時代錯誤の男尊女卑」との批判を浴びたのが、日本の国技でもある相撲での騒動だった。2018年4月、京都府舞鶴市で行われた大相撲春巡業で、挨拶中に突然倒れた市長の救命措置のため、土俵に駆け上がった女性に日本相撲協会側が下りるよう求めるアナウンスを流したのだ。背景にある女人禁制を「しきたり」とする相撲界に対して疑問の声が噴出。直後には、兵庫県宝塚市での巡業で挨拶に立った女性市長が、土俵脇の台上から「女性という理由で、土俵の上でできないのは悔しく、つらい」と訴えるに至った。
日本書紀には「相撲を最初に取ったのは女性」とあり、明治初期までは各地で男女の相撲が見せ物として行われていた事実もある。倒幕後の政府は天皇に権威と権限を集中させることで統治を進めるため、武士から刀を取り上げる一方、天皇の神格化を強力に推し進めるため男尊女卑については江戸時代の風潮を継承し、さらに強化した。
「そうしたベクトルの中で天皇列伝から抹消されたのが、三韓征伐であり、『神功天皇』との表記も残る神功皇后の天皇説だったのです」(同)
また清寧天皇(22代)の死後、臨時で政治を執り行った飯豊女王(飯豊青皇女)も、はっきり「天皇」と記した史書も残っているが、「古事記」などが天皇と表現していないことから、やはり「摂政だった」として歴代天皇にカウントされていないことは周知の事実だ。
「愛子天皇待望論に象徴される女性天皇の是非についての議論が、再び歴史の中で雲散霧消となることは、決してあってはならないはずではないでしょうか」(前出OB)
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