カズオ・イシグロ氏が“記憶”に魅了される理由 「遠い山なみの光」映画化を受けて語った記憶と歴史、そして「壊れやすく、得難い平和」
未来へ踏み出し、よりよい人生を築くために
――ある部分で人間は、そうした忘却や記憶の改変なしには生きてゆけないとお考えですか？
生き延びるためには忘れること、そして何かを変えることが必要だと思います。それは個人と社会双方の階層に当てはまります。トラウマや悪い記憶に人生を支配されてしまった人間は、しばしば被害妄想に囚われ、他人に対して破壊的な行動をとるようになる。ですから、これは常に大きな問題です。忘れたほうがいいときもあれば、記憶しているほうがいいときもある。そのバランスをとるのは非常に難しいことだと思います。
場合によっては、完全に忘れて前に進むほうがいいときもあるでしょうが、それでもそれなりのコストを支払うことになると思います。日本のような国はある意味で、第二次世界大戦の終戦時、集団的に忘れることを決意したと言えるでしょう。その忘却がなければ、日本は今のような幸福で、強い民主主義国家にはなれなかったと思いますが、それと同時に様々な記憶が埋もれ、忘れ去られてしまっているのではないかとも。
私が今、カンヌ国際映画祭で訪れているフランスにも同じことが言えるでしょう。第二次世界大戦でナチスドイツに占領されたこの国も、そうした歴史の一部を忘れようと決意しました。重要なのは、未来を築こうと努力することだったのです。
これはこの映画における重要なテーマとして、小説よりも力強く描かれていると思います。過去の恐ろしい出来事を忘れようとすることの大切さが、広瀬すずさん、二階堂ふみさんという二人の女優の演技によって強く感じられます。そして未来へと踏み出し、よりよい人生を築くための強さと勇気と希望を見つけること。この映画にはそれが描かれていると感じました。
しかしその過程で、記憶はある程度忘れ去られてしまうものなのだと思います。
平和とは壊れやすく、得難いもの
――世界各地で戦争が起こっている今の時代に、この作品が映画化される意味があるとすれば、どのようなものでしょうか？
おっしゃるとおり、今は世界中で恐ろしい戦争が起こっています。にもかかわらず多くの人々、特に豊かな国々の多くの人々は戦争を経験したことがなく、戦争は起きないのが当たり前、起きたとしてもどこか遠いところで起きると考えがちです。
この映画は、戦争の真っ只中に生まれた悲惨な状況を描いた作品ではありません。市井の人々が送る日常生活と、その中の出来事が描かれた作品です。ただし、つい最近まで戦争が行われていて、平和は決して当たり前ではないということも描かれています。登場人物たちはみな戦争を経験しています。大変な苦労を味わい、あらゆるものを失い、大変な思いをしながら生きてきた――それを思い出させてくれる映画だと思います。
この80年間、日本を含めた西側のヨーロッパやアメリカでは平和が続いてきましたが、これは歴史上で非常に異例なことで、「たまたまそうなった」というわけではありません。第二次世界大戦後、世界は複雑なシステムを構築し、平和を維持しようと努めてきました。
この戦後80年という節目に、第二次世界大戦後に築かれたもの、特に国連のような組織、IMFや世界銀行のような経済機関、そしてその他の多くの貿易協定や平和条約の重要性を改めて認識してもらえればと思います。 平和という壊れやすいものが80年間も続いてきたのは、そういうものがあったからです。
しかし、私にはいま、私たちの平和を保ってきた制度を脅かす多くの勢力があるように思えます。そうしたことがこの映画の本質ではないとは思いますが、恐ろしい出来事を乗り越えなければならなかった人々、小さな個人の命にまつわる映画を作ることで、平和というものがどれだけ壊れやすく、得難いものであるかを伝えることができる。それは、現時点で非常に重要なことだと思います。
「遠い山なみの光」9月5日（金）TOHOシネマズ日比谷他 全国ロードショー 配給：ギャガ （C）2025 A Pale View of Hills Film Partners
