「これは先生が浮気をした時の歌ですか?」 石川さゆりが作詞家の恩師に尋ねた「紅白の定番曲」が描く“大人の世界”

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 コラムニストの峯田淳さんが綴る「人生を変えた『あの人』のひと言」。日刊ゲンダイ編集委員として数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけている峯田さんが俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返ります。第26回は、「天城越え」で知られる石川さゆりさん。大ヒット曲が生まれるまでの壮絶なドラマが明かされます。

年末には欠かせない曲

 世の男女にとって激しくも切なくもある、そして胸を抉られるような情念の一曲は? 

 そう問われると、間違いなく上位、いやトップにあげられるのは、石川さゆり(67)の「天城越え」ではないだろうか。

 石川は紅白歌合戦に47回出場(2024年まで)。そのうち、紅組のトリを9回務め、「天城越え」はこれまでに「津軽海峡・冬景色」と同じ、13回歌っている。大晦日には「天城越え」か「津軽海峡・冬景色」を聴かないと1年が終わる気がしないという人も多だろう。

 では、その名曲「天城越え」はどうやってできたか。これがとても興味深い。

 作詞は、古くは美空ひばりや都はるみの曲を手がけた吉岡治(享年76)、作曲は石原裕次郎や川中美幸などを手がけた弦哲也(77)。石川にとって吉岡は、100曲以上も詩を書いてもらった恩師でもある。

 石川が「天城越え」を歌ったのは86年のこと。この時、28歳。元マネージャーでカメラマンの馬場憲治氏との間に長女をもうけて2年余りの頃だった。都はるみが「普通のおばさんになります」という有名なセリフを残して引退宣言したタイミングで、日本コロムビアは新たな演歌のスターを育てようと、石川に白羽の矢をたてたという。

 77年に「津軽海峡・冬景色」が大ヒット。同年の日本レコード大賞歌唱賞を受賞していたが、石川にもうひと山、越えてほしい――コロムビアにはそんな思いがあった。舞台は伊豆の天城と決まっていた。要するに「天城越え」……。

 吉岡や弦とスタッフが、伊豆の宿に曲作りのために籠る。吉岡の2、3行の詞に弦が曲をつけ、詞とメロディーのキャッチボールの末に曲ができた。それを録音する間に吉岡が散歩に出かけたのだが、戻ってくると「浄蓮の滝」、「寒天橋」、「天城隧道」といった具体的な地名を入れてほしいという。そうして漸く曲はできた。

「人殺しの歌を歌うんですか」

 さて、石川の反応はどうだったのか。

「天城越え」の1番は出だしから「誰かに盗られる くらいなら あなたを 殺していいですか」と続く。「天城越え」の誕生秘話を取り上げたBSテレ東京の「武田鉄矢の昭和は輝いていた」で弦はこう語っている。

「(石川は)私が人殺しの歌を歌うんですかと、拒否反応が強かった」

 予想外のことにスタッフは慌てた。そして、そんな石川を説得したのが吉岡だった。

 演歌を「演じる歌」と捉えることはできないか。抜き差しならなくなった男への激情に、身もだえする女性を演じてみせる、プロならそれくらいできるだろう……と。

 石川は吉岡の説得に頷く。吉岡には好きに歌っていいと言われたのだが、まだ30歳前の石川には大人の世界がわからず、こう尋ねたという。

「これは先生が浮気をした時の歌ですか」

 石川が「今あるのはあの人のおかげ」というテーマのインタビューで語った言葉だ。これに対して吉岡は「違うよ」と言って、こう説明したという。

 子供の頃に同じ長屋に住んでいた夫婦がいた。妻は夫の浮気を知って相手の女の元に怒鳴り込んだ。その時に妻は自分の子供ではなく、吉岡の手を引いて乗り込んだのだという。吉岡はそこで子供ながらに男女の修羅場を目の当たりにする。その記憶は温厚な吉岡の中でくすぶり続けた。それを歌詞にし、それを石川が歌って、女の情念を象徴するような曲にまで昇華させる……吉岡にとってはそれが「天城越え」だった。

 石川は時に吉岡と焼き鳥屋に出かけ、語らう事もしばしばだった。そんな時はわがままを言い、吉岡には「あなたは無茶苦茶なことを言う」と、恩師と弟子の立場が逆転することもあった。そんな「作り話大会」と称するやりとりの中で生まれた曲もあるという。吉岡は歌詞ができると、紙に手書きで清書して石川に渡してくれたそうだ。

 一言でいえば、恩師と石川の間に他人が入り込む余地がない信頼関係があったことが、今に至るまで「天城越え」を国民的な曲にならしめている理由だろう。

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