王貞治・長嶋茂雄から落合博満、大谷翔平まで…レジェンドたちの「高校最後の夏」に何が起きたのか?
夏の甲子園出場をかけた地方大会もたけなわ。6月に他界した“ミスタープロ野球”長嶋茂雄氏をはじめ、球界のレジェンドたちも、かつては高校球児だった。そんな彼らの高校最後の夏を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】
【写真】6月に他界した長島茂雄氏と大谷翔平選手の貴重なツーショット
無名の高校生が「関東の逸材」に
中学時代から遊撃手だった長嶋茂雄は、高3の6月に行われた練習試合がきっかけで、三塁手にコンバートされた。
1試合目で4失策を犯した長嶋は、2試合目も5回にトンネルを演じてしまう。見かねた監督が長嶋をショートからサードに回すと、直後、三塁線を襲う痛烈な打球を横っ飛び好捕、体を捻って一塁に矢のような送球を見せ、見事アウトに仕留めた。“史上最高の三塁手、長嶋”が誕生した瞬間でもあった。
3年計画の3年目を迎えた佐倉一は、夏の千葉県大会で4強入りし、千葉、埼玉の各4校が甲子園出場を争う南関東大会出場を決めた。
8月1日の初戦(準々決勝)の相手は、2年前の夏の甲子園準優勝校・熊谷。主力3人を故障で欠き、リズムに乗れない佐倉一は、初回にいきなり3点を失ってしまう。
そんな劣勢のなか、6回1死、4番・長嶋が福島郁夫(元東映)の内角高め直球をとらえ、大宮球場のバックスクリーンに特大の130メートルアーチを放つ。これが高校入学後、初本塁打であり、同球場ではこれほど遠くまで飛ばした高校生は過去にいなかった。
さらに1対3の8回1死一、二塁、長嶋はセンターに大飛球を放つが、フェンス手前で中堅手がジャンプキャッチ。試合も1対4で敗れ、甲子園は幻と消えた。
だが、この試合を巨人の若林俊治スカウトが見ていたことから、無名の高校生は「関東に逸材あり」と一躍評価を高め、ここから輝かしい野球人生が幕を開けることになる。
世界の王”への扉をこじ開けることに
高校3年間で1度も甲子園に行けなかった長嶋とは対照的に、早稲田実時代の王貞治は1年夏から3年春まで4季連続出場をはたしている。2年春は優勝投手になり、2年夏には延長11回ノーヒットノーランを達成。3年春にも2試合連続本塁打を記録するなど、投打にわたって存在をアピールした。
そして、5季連続甲子園がかかった最後の夏、早実は順当に決勝まで勝ち進み、ともに春夏連続の甲子園を狙う明治と対戦した。
大会初先発のマウンドに立った王は、6回に四球をきっかけにボークとスクイズで1点を失うが、7回以降は点を許さず、1対1のまま延長戦へ。
試合は12回に大きく動く。早実は1死一、二塁で3番・王の一塁線を破るタイムリーで2対1と勝ち越したあと、なおも2点タイムリーとスクイズで、一挙4得点。勝負あったかに思われた。
ところが、その裏、疲れから球威の落ちた王が明治打線につかまり、2安打とエラーで1死満塁のピンチを招くと、押し出しの四球で1点を献上する。
ここで王はライトに下がり、河原田明(元東映)のリリーフを仰いだが、満塁の走者一掃の三塁打を浴び、5対5の同点。直後、ライトから再び王がマウンドに上がったが、宮沢政信に左中間を破られ、まさかの逆転サヨナラ負けに泣いた。
「経験したことのない虚しさに襲われた」という王は「高校球児とすれば、3年の夏に甲子園に行くのが最高なのです。なのに、僕はその3年の夏の地区予選の、それも決勝で、延長戦で4点を入れながら、最後の最後に試合をひっくり返されてしまった」(自著「野球にときめいて 王貞治、半生を語る」中央公論社)と悔やみに悔やんだ。
王の人生は節目、節目で「何かに導かれたように」野球選手としての道を歩むように運命づけられている。中学時代に将来、電気技師になるつもりで都立高を受験したが、不合格になり、野球で誘われた早実に進学した。
高3夏も甲子園に出場したら大学に進学するつもりだったが、最後の夏に夢を叶えられなかったことが「何かをやり残した」思いをかき立て、「プロでやってみようか」と“世界の王”への扉をこじ開けることになる。
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