“ジュニアでも全日本に縁がなかった”津雲博子が「世界一のリベロ」と呼ばれた理由 「言葉では説明できない感覚が体の中に」(小林信也)

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 バレーボール界で「守備専門のリベロ」というポジションが考案されたのは1990年代の後半。96年から試験採用され、97年11月のワールドグランドチャンピオンズカップ(WGC)でも採用が決まった。

 日本代表監督を務める葛和伸元は「誰を抜てきするか」人選に悩んだ。国内リーグを控えている時期でもあり、他チームに無理は言えない。葛和は元々自分が所属しているNECの選手から選ぶしかないと決め、後輩監督の吉川正博に相談した。吉川は推薦する候補を絞り込んで葛和の来訪を待った。

 葛和がNECの体育館を訪ねた日、たまたま津雲博子と会話する機会があった。

「今度リベロができるんですって?」

 津雲が話を振った。

「そうなんだよ」、葛和が答えた。そして、ただ話の流れで津雲に言った。

「お前、リベロやってみたいと思うか?」

「えー! でも、ミレヤ・ルイスのスパイクなら受けてみたいっすね」

 津雲は当時最強といわれたキューバのエース・アタッカーの名前を挙げた。

 その時はそれだけの会話だった。ライト、レフトのポジションで活躍するアタッカーだから、まさか自分がリベロになるとは想像もしなかった。ところが間もなく葛和から正式な打診があって、津雲は初めて日本代表に選ばれた。身長175センチの大型リベロが誕生した。

「私はジュニアでも全日本に縁がありませんでしたから、リベロのおかげで全日本に選ばれた。それは本当にラッキーでした」

苦手意識

 現在はNEC監督だった吉川と結婚し、2男の母である津雲が話してくれた。そして、「でも」と少し顔を曇らせた。

「レシーブは得意なんですけど、私、サーブ・レシーブが苦手だったんです」

 バレーボールのレシーブには大別すると2種類ある。スパイクを受ける〈レシーブ〉と、サーブを受ける〈サーブ・レシーブ〉だ。

「私自身アタッカーでしたから、相手が打つコースを読むのは得意。好きだし、だいたい当たりました」

 だが、威力のあるジャンプサーブや変化の読めない変則的なサーブにはまったく歯が立たない。苦手意識があった。

「サーブ・レシーブは私と大懸(郁久美)が2枚で受ける形でした。大懸は世界でもサーブ・レシーブがうまいことで有名でした。私は大懸に『広めに拾ってね』と頼んでいました(苦笑)。それでもいやらしかったのはロシアですね。私が苦手なのを分かっていて、サーブを打つ前、わざわざ指を差して私を狙えと指示してくるんです」

 今はリベロを2人登録できるルールに変わったので、レシーブ専門のリベロとサーブ・レシーブが得意なリベロの使い分けができる。当時は1人だから、両方やるしかなかった。

 津雲がリベロになるきっかけともいえるルイスとは対決できたのか? 聞くと目を丸くして言った。

「やりました。驚きました。速いし高さはあるけどルイスのスパイクはすごく軽かった。片手でも上がるくらい。意外でしたね。逆にバーバラ・イエリッチ(クロアチア)は重い。身を挺して上げないと吹き飛ばされる……」

 経験を重ねるうち、津雲は自分が独特の感覚を体に秘めていると感じた。

「言葉では説明できないんですが、スパイクの威力を吸収する感覚が体の中にあった。ボールの勢いを殺すことが得意だった」

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