家業をあきらめ、妻と別れ… 「本能で走ろうとしていた」アイルトン・セナが“音速の貴公子”と呼ばれるまで
〈音速の貴公子〉と呼ばれたF1王者アイルトン・セナはレース中の事故で突然、帰らぬ人となった。34歳の若さだった。
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1994年5月1日、F1グランプリ(GP)第3戦サンマリノGP。イタリア・イモラサーキットの高速コーナーを時速312キロで走行中、セナのマシンが突然グリップを失い、コーナーを直進して右脇のコンクリート・ウォールに激突した。その瞬間、レースを見ていた誰もが心臓を凍らせた……。
意識不明のセナはヘリコプターで救急搬送されたが約4時間後、死亡が発表された。
セナ事故死のニュースはすぐ母国ブラジルにも伝えられた。サンパウロではサッカーのサンパウロFCとパルメイラスの試合中だったが、主催者はすぐに試合を中断し、全員でブラジルの英雄に黙とうを捧げた。
イタマール・フランコ大統領は翌2日から3日間、喪に服すことを宣言。葬儀は国葬で執り行うと決めた。ブラジル国旗に覆われたセナの棺は、通常は貨物室で運ばれるところ、特別に客室で母国に帰還した。
国葬では約300万人がセナとの別れを惜しみ、その模様を放送した番組の視聴率は60%を超えたといわれる。国中が英雄の夭逝を悼み、世界中が深い悲しみに沈んだ。
引退撤回を求める
セナはF1世界選手権で3度ワールドチャンピオンに輝いた。計65回のポールポジション獲得は、2006年ミハエル・シューマッハに抜かれるまで歴代1位。優勝41回、表彰台80回、ファステストラップ19回。いずれも超一流の証しだ。
80年代から90年代前半にかけて、アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルと共に“ビッグ4”と呼ばれ、F1人気をけん引した。
中でも、マクラーレン時代にチームメイトとして王座を争ったプロストとのライバル関係は世界中のファンを熱狂させた。
事故前年の93年限りで引退したプロストに、セナが引退を撤回するよう強く求めていたという話が後にプロストによって語られる。最強のライバルを失ったセナが、「自分をやる気にさせる存在がいなくなってしまった」と。プロストは、フジテレビが主催したセナ追悼イベントのインタビューで次のように語っている。
「セナはレースに100%集中していた。僕には家庭もあるし、趣味もある。ゴルフや自転車、スキーにも夢中になる。しかし、セナの大切なものはレースだけなのだ。僕のレースへの集中は96%、いや98%……。マシンにトラブルが生じた時、僕ならすぐピットに入る。でもセナは違った。彼は本能で走ろうとするのだ」
60年3月21日、ブラジル・サンパウロで、工場経営者で資産家の父と母の間に生まれた。
7歳のころ、農場でジープを運転し、〈クラッチを使わずにギアチェンジすることを覚えた〉というから天性のドライビング・センスを備えていたのだろう。
父が芝刈機のエンジンを載せて手作りしたカートが最初の愛車だった。
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