藤井聡太棋聖に挑んだ遅咲きの棋士「杉本和陽六段(33)」 決戦を機に明かした師匠「米長邦雄永世棋聖」の凄すぎる洞察力と勝負師としての矜持

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 昨年7月に5連覇を成し遂げ、永世称号を手にした藤井聡太棋聖がさらなる記録更新を目指すヒューリック杯第96期棋聖戦五番勝負の第3局が、6月30日に千葉県木更津市の竜宮城スパホテル三日月で行われた。

 棋聖戦を含めて7つの頂を手中に収めている藤井聡太棋聖に挑んだのは、杉本和陽(すぎもと・かずお)六段だ。2012年にこの世を去った米長邦雄永世棋聖の「最後の弟子」として知られ、33歳で初のタイトル戦に挑んだ苦労人に、師匠との思い出や、棋聖戦への思いを語ってもらった(全2回のうち第2回)。

米長邦雄氏の色気に惹かれ入門を決めた

 3日に日光金谷ホテル(栃木県日光市)で行われた第1局に臨んだ杉本六段は、師匠の米長邦雄氏が生前に着用していた和服を身に纏って登場した。かつて28歳でデビューを果たし、30歳で迎えた棋聖戦(22期・1973年)で初タイトルを獲得。その後、永世称号も手にした師匠の思いを背負い、棋聖戦に臨んだ。

「とても穏やかな性格でありながらも、目の前の局面に徹底的に向き合う姿勢をお持ちの方で、たとえ残り時間が少なくなろうとも、『自分の納得しない手は絶対に指さない』という強い意思を感じた」という藤井棋聖を相手に、杉本六段は堂々とした戦いを見せたものの、第1局では終盤に振り切られて力及ばず。18日の第2局(ホテルニューアワジ・兵庫県淡路市)、30日の第3局(龍宮城スパホテル三日月・千葉県木更津市)でも苦しい対局を強いられて敗れた。

 そんな杉本氏と、永世棋聖の称号を持つ米長邦雄氏との出会いは、杉本氏が小学6年生だった2003年の春に遡る。前年に小学生名人に輝いた杉本氏は、大会を主催する米長将棋連盟会長(当時)の「棋士らしくない佇まいや男の“色気”に惹かれた」ことをきっかけに手紙を出し、入門を志願。棋士の養成にあたる奨励会に入会するタイミングで、杉本氏は米長氏の審査に臨むこととなった。

「当日は(米長)師匠の家に出向き、面接や後に私の先輩になる門下生との対局で、審査が行われました。将棋の勝敗もさることながら、師匠は私が盤を見る目線や、対局に臨む際の雰囲気もじっくりご覧になっていて。さまざまな要素を踏まえて、弟子入りをご決断くださったのではないかと思います」

 審査の当日には、個人面談や米長一門の棋士たちとの対局に加えて、米長氏による杉本氏の両親の面談も行われたという。

「私がその場に同席させていただいたわけではありませんが、のちに知った師匠のお人柄を鑑みると、『両親の仲が良いか』、『母が父をうまく立てているか』、『父が母に尊敬されているか』といった家庭環境をじっくりご覧になっていたのではないかと思います」

杉本氏も驚いた米長永世棋聖の洞察力

 その後、米長永世棋聖に実力が認められた杉本六段は、晴れて“米長一門”に加わることになった。杉本六段によると「師匠から直接技術指導を受けたり、自身の成績を細かく指摘されたりすることは少なかった」ものの、米長氏の心の乱れを見抜く洞察力に、度々驚かされる場面もあったそう。

「ある時、私が消極的な将棋をしていると、師匠が『どうした? 悩みでもあるのか?』と声をかけて下さって。『野球でたとえると、ノースリーから四球で出塁することを期待しているように見えるから、本塁打を狙うつもりで打席に立った方がいいよ』とアドバイスしていただきました。師匠はいつも鋭く刺さる言葉を投げかけてくださるので、私もさまざまな学びを得ることができたと思っています」

 米長永世棋聖は2012年12月、前立腺ガンとの闘病の末にこの世を去ったが、亡くなる1年ほど前の2012年1月には病魔を抱えながらも最強の将棋ソフト「ボンクラーズ」と対戦し、多くの話題を呼んだ。

「対戦の前に、さまざまな棋士を自宅に招いて、勝利のヒントを探されている師匠の姿がとても印象に残っています。私もふとした時、師匠がつけている将棋ノートを偶然目にしたことがあるんですけど、そのページには将棋のさまざまな打ち手や、その時に感じていた思いが事細かく記されていたんですよ。師匠の破天荒な個性に注目が集まることもありましたけど、それらを見ていると真摯に将棋と向き合い、真面目に努力を積み重ねてきた姿が垣間見えましたし、繊細な神経をお持ちだったことを窺い知ることもできました」

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