「夫は出張でいないの」35歳の団地妻に何度も何度も誘惑されるも… 53歳夫が忘れられない「十代の初恋」の苦い記憶
翌日、再び訪問すると…
携帯などない時代だし、そもそも家の電話番号も聞いていなかった。飛び込みで入った家だ。団地の何号棟なのか部屋番号はいくつだったかも怪しかった。
「1セット5万円くらいする高価なものでした。今さら団地には戻れないと思い、その日はとぼとぼとアパートに帰りました」
翌日はバイト先に顔を出して何セット売れたのかを報告、お金をおさめなければいけなかった。彼はしかたなく、翌日朝いちばんで、再度、団地を訪問した。前日の記憶をたどって歩いていると、ある窓から「おにいさん」と呼ぶ声がする。
「昨日の女性でした。走って彼女のいるところへ行こうと思ったんですが、その棟に入って3階に上がったまではよかったけど部屋がどこだかわからなくて。ああいう団地は当時、実家の近くにはなかったから、戸惑いました」
彼女が玄関から顔を覗かせ、「おにいさん、こっちこっち」と手招きしていた。玄関に滑り込むと、「昨日は急に帰っちゃうんだもの」と彼女は艶然と微笑んだ。また彼の頭がクラクラした。
「リビングのソファに座って、コーヒーをごちそうになって。朝ご飯食べたのと聞かれて、まだですと言ったら、トーストとサラダ、スクランブルエッグを出してくれました。手が震えましたが、おいしかったですね」
「夫が出張でいない」「子どもは母が」
問われるままに生まれた地方のこと、今は大学生になったこと、だがアルバイトをしなければ生活できないことなどを話した。
「そのとき僕、『奥さん』と彼女のことを呼んだんですよ。そうしたら『早希って呼んで』って。その日もお子さんはいなかった。部屋を見渡しても、子どもがいるような気配がない。もしかしたら本当はいないのかもしれないと思った。それでも彼女は一括で教材を買ってくれました。『私は仕事をしていないから、退屈なの』と言っていましたが、僕はその日、バイト先にも大学にも行かなくてはならなくて、早々に引き上げたんです。今思えば、あれは絶対に誘われていたんだと思いますが」
聞かれたのでアパートの部屋の電話番号を教えたのだが、その後、彼女は頻繁に電話をかけてきた。教材の使い方がわからないとか、時間があるときにお昼でも食べに来ないかとか。
「早希さんの家は、アパートから大学へ行く途中にあったので寄りやすかったんです。ときどき行っているうちに、週に1度は昼食をご馳走になるようになった」
彼女は常に誘いをかけてきた。「夫が出張で、昨日からいないの」とか「子どもは夫の母がほとんどめんどうを見ているの」とか。それでも靖文さんは気づかなかった。
「あるとき、『靖文くんは鈍いのね』と彼女に背後から抱きしめられて、気持ちがどうこうより体が反応してしまった。彼女はそれを見て『いいのよ。若いんだから』と言いながら、体勢を変えて僕の手を自分のブラウスに滑り込ませました。そうなったらもうダメですよね。とても我慢できなかった。彼女は女神のように僕を導いてくれた。ただ、まさに彼女の中に埋没しようとした瞬間、ピンポンとチャイムが鳴ったんです」
“修羅場”をどう乗り切ったのか
早希さんは青ざめて「夫かもしれない」とつぶやいた。玄関へ行き、彼の靴をもって飛んで戻ってくると「お願い、ベランダで待ってて」と彼を窓から押し出した。洋服一式と鞄が投げられてきた。窓が閉められ、カーテンもきっちり引かれた。
「冬だったんですよ。昼間とはいえ、曇り空で風が強くて寒い日でした。しばらくベランダでうずくまっていると、ようやく窓が開き、『夜、出張から帰ってくるはずだったのに、ごめんね。寒いから温まってと言って、夫にお風呂をつかわせたから、今のうちに』と言われ、靴と荷物を持って玄関へ走りました」
外に出て、団地から離れるとようやくホッとした。腕時計を見たらベランダに1時間近くいた。凍えるような寒い日だった。心も寒々と冷えていった。
「僕は早希さんに本気になっていました。でも彼女にとってしょせん、僕なんて日常の彩りにもなってなかったんでしょう。寂しかったですね」
ただ、翌日、彼女から電話がかかってきた。大学へ行くため部屋を出ようとしたときだったが、彼は電話に飛びついた。早希さんは「ごめんね、本当にごめんなさい」と謝っていた。あれから夫に「部屋の様子がおかしい。誰か来ていたのか」と問われたが、彼女は口を閉ざした。少し前から妻に疑いをもっていた夫は、わざと出張からの帰宅日をずらして伝えていたのだった。
「その晩、夫に求められたけど断ったと彼女は言っていました。夫は怒って彼女の頬を殴ったとか。聞いている僕の胸が痛みました。彼女を連れて、どこか遠くへ行ってしまいたい。そう思った。そう言ったら『若いのよ、あなたは』と電話の向こうで彼女はため息をついたけど、声が泣いていた」
それ以降、早希さんからの連絡は途絶えた。団地に行ってみたこともあるが、カーテンがきっちり閉まっていて様子がまったくわからない。電話をかけてみたら、年配の女性が出た。適当なテレビ局と名前を告げて「早希さんが懸賞に当選したんですが、ご本人さまですか」と言ってみると、「早希はここにはいません」と切られた。
「もう会えないんだと思いました。彼女とは結局、結ばれないままだった。あれ以来、僕はことあるごとに早希さんを思い出してしまうんです。あれからどうなったのだろう、つらい思いをしているのではないだろうか、今も元気でいるだろうか……と」
18歳のたった数ヶ月の思い出だった。それから彼は大学を卒業し、就職、転職、同棲、結婚を30歳までに経験した。
31歳で父親になり、3人の子に恵まれた。
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若き日の靖文さんが経験した、人妻・早希さんとの出会い。本当ならば、それは初恋の記憶として心の奥にしまわれるはずだったのだが――。【記事後編】では、家庭生活を送りながらも早希さんを忘れられなかった靖文さんと、ついに下した“決心”について紹介している。
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