“YMOの前座”からAKB48のヒットメーカーへ 井上ヨシマサ、音楽人生の原点は小学生ジャズ

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

あのYMOの前座で

 小中学生によって結成された「コスミック……」は評判となり、1981年にはビクターからレコードデビューが決まった。

「デビュー前には『A列車で行こう』などのスタンダードナンバーをやっていましたが、みまちゃんが美少女だったので、みまちゃんを中心に売っていこうと決まって」

 レコードデビュー前年の1980年末には、YMOの日本武道館公演で前座を務めたことも。

「面白い子たちがいる」と目を付けたのが細野晴臣だった。

「面白いから、今度の日本武道館公演で、『YMO!』って紹介したら、この子たちが弾いてるのとかどう? って細野さんが言い始めたそうです。僕らはいいけど、ファンの人はどうなのと思いましたけれど、案の定、『違うじゃねぇか』とブーイング(笑)。しかも僕らはドンカマ(リズムのガイド音)に合わせて演奏するのにも慣れてなくて。8分音符分ずれてて、『ドラムのみまちゃんひどいな』と思ってたんですけど、最近、YouTubeで当時の映像を見たら、僕が走ってました(苦笑)ごめん」

ジャズのポリシーに反しないよう作曲は一筆書き

 ただ、森岡みまを中心とする「コスミック……」の方針には違和感も抱いていた。その胸の内を、当時、ビクターに在籍していたディレクターの田村充義氏に打ち明けていた。

「曲のことを相談するうちに、こういう曲じゃなくて自分でも作りたいです、って田村さんに言いました。それで初めて作曲しました。詞も田村さんと相談しながらビクターのピアノルームで作ってね。田村さんはプロデューサーらに比べて年が近かったので、お兄ちゃんみたいな存在でした。プロデューサーの一人、小田啓義さん(元ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)からもその曲を『なかなか面白い、いいね』と褒められて」

 作曲については当初、甘く見ていたという。

「野球選手が『ゴルフの止まってる球を打つのは簡単』と言う誤解のようなものです。ジャズは、その場で周りの演奏家と即興で作っていくものだから、作り直して完成させる“作曲”なんていい加減だな、と思っていたんです。だから僕は、ジャズのポリシーに反しないよう、一筆書きで作っていました。だから1日3曲とか書ける。いい曲かどうかは別ですよ。今はめちゃくちゃ振り返って作り込みますからね」

 18、19歳の頃は、自分の中に生まれた素直な盛り上がりをそのまま曲の形にしていたという。

 やがて「コスミック……」が解散すると、大学にも進まず、将来を心配する母には「大丈夫だよ、音楽の仕事があるから」と言いながら、進む道を模索していた。

 そんな中、田村氏に曲を聞いてもらったところ、「いいね、曲を集めてアルバムができたら」という言葉をもらえた。生活のため、他人への曲提供の機会も伺っていたところ、折しも田村氏が小泉今日子のプロデュースを手掛けていた。「いろんな新人作家を使ったほうが、(小泉)本人のためになる」とアルバム制作にあたり新人を発掘・起用していたことも奏功。小泉が1985年7月に出したアルバム「FLAPPER」のB面5曲目に、井上作曲の「Someday」が収録された。クレジットには、都倉俊一や馬飼野康二らのプロ作曲家、矢野顕子や大沢誉志幸、飯島真理といったシンガーソングライターらと並んで、井上が名を連ねたのだ。

「毎週曲を書いていましたけど、最初はすごく“アイドルっぽい曲”を持っていったんですよ。ところが田村さんに『それなら筒美京平さんに頼んだほうがいい』って言われました。アーティストとしてアルバムを出す事が本当の目標ならば、歌いたいもの、書きたいものを作りなさいと突き返されました。だからアイドル向けに書くのはやめましたね」

 自分が本当に歌いたいものを形にする――そんな姿勢から、井上の作曲家人生はスタートした。

 ***

 こうして作曲家としての第一歩を踏み出した井上。第2回【まだ作曲中なのに予約は100万枚…時代を築いた「AKB48」ヒット作に込めた井上ヨシマサの“叫び”】では、AKB48との出会いやその歴史について振り返る。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。