海外大物アーティストから絶大な信頼…「来日公演」にこの人ありの“伝説の呼び屋”、死去の1か月前も口にしていた“仕事の真髄”

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「人のやらないことをやる」という信念

第1回【「66年ビートルズ来日」を仕掛けた“伝説の呼び屋” 「警察官8000人が動員された」武道館公演の舞台裏】を読む

 いまや日本でも当たり前になった海外アーティストの来日公演。その大きな礎となったのは、昭和41(1966)年のビートルズ来日だった。音楽シーンのみならず、日本中に与えた衝撃はまさに“革命的”。この招聘を手掛けた内野二朗氏は、1962年に音楽プロモート会社「キョードー東京」の前身となる企業を設立し、国内外アーティストの公演に尽力し続けた。

 そんな内野氏が76歳でこの世を去ったのは、2004年6月15日のこと。その約1カ月前、内野氏は「週刊新潮」がかねて依頼していたインタビューに応じていた。数多くの伝説的な公演を手掛け、「人のやらないことをやる」という信念を貫き通した超大物の“呼び屋”は、最後に何を語ったのか。

(全2回の第2回:「週刊新潮」2004年7月1日号「ビートルズから3大テノールまで『大物呼び屋』内野二朗の遺言」を再編集しました)

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3大テノールに「ハッピー・バースデイ」を歌われて

「社長、会長職を離れた後も、みんな内野さんを頼りにし続けました。やはり海外のエージェントは実績のある内野さんがプロモーションに関わることを求める。この世界は結局、人の信用ですから。3大テノールの時も、ドミンゴのエージェントは内野さんとは古い付き合い。その関係で初の3大テノール来日も決まったのです」(キョードー・グループ関係者)

 96年の3大テノール来日を縁に、98年のサッカー・ワールドカップ決勝戦前夜祭としてパリ・凱旋門で行われたコンサートには特等席に招待され、2002年来日の際には、誕生日に歌をプレゼントされたという。

「コンサートのあった日がちょうど僕の誕生日で、青山のイタリアンレストランで、ハッピー・バースデイを3人に歌ってもらいました。つい1ヵ月ほど前には、僕の病気を知ったパバロッティから、励ましの手紙をもらいました」(内野氏)

 70年代後半以降は、日本人アーティストもプロモート。まだメジャーになりかけだったアリスの武道館単独公演を成功させ、また、アジアのミュージシャンを集めたコンサート「PAXMUSICA」など、活動は広がっていった。

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