「66年ビートルズ来日」を仕掛けた“伝説の呼び屋” 「警察官8000人が動員された」武道館公演の舞台裏

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我々も若かったからできたこと

 すでにこのインタビューの時点で、内野氏は自身がガンに侵されていることは認識していた。声を体から絞り出すように、ゆっくりとしゃべる。

「チケットをほしがる子供たちが家出して地方から出てきたり、実際の公演では、そう、女性が興奮しちゃって、失禁、おもらしっていうの、婦人警察官までしちゃったって言うんだから。掃除は大変でしたね。ヘンなところでお金がかかっちゃって。でも、いま思えば、我々も若かったからできたことでしょうね。ビートルズがニューヨークのシェイ・スタジアムでコンサートを開いたのは知っていたけれども、実際に日本でやったらどうなるかは、誰にもわかっていなかったんですから」

 内野氏がこの業界に関わることになったきっかけは、伝説的プロモーター・永島達司氏(故人)との出会いだった。戦後、埼玉県にあった進駐軍・ジョンソン空軍基地(現・入間基地)の中の将校クラブで働いていた内野氏は、ここでフロア・マネジャーとしてクラブを取り仕切っていた永島氏と知り合う。

 やがて永島氏は基地を去り、プロダクションを設立。のちにアカデミー賞助演女優賞を受賞するナンシー梅木や、昭和20年代に一世を風靡した笈田敏夫らジャズ・ミュージシャンが在籍していた。

ヤクザみたいな人ばかりがやっていた

「僕は基地でも経理をやっていましたから、それを手伝ってくれといわれたんです。でも、永島さんに頼まれても、僕はこの世界にだけは入りたくないと思っていたんですよ。当時の業界は、ヤクザみたいな人ばかりがやっていましたからね。でも、結局やることに決めて、やるからにはそういう人たちとは一切付き合わずに、人がやったことのないことをやろうと思ったんです。何か新しいことを自分のやり方で作っていこうということ。それは、今振り返ってみても、割とうまくいったと思うんですよね」

 草創期は、海外タレントの招聘や契約は永島氏が行い、その興行を内野氏が受け持つという役割分担。ビートルズ公演も、この体制で行われた。

 だが、内野氏は、赤坂のナイトクラブのショー・プロデューサーを務めるなど守備範囲を広げ、自ら設立したキョードー東京グループのシンジケートを全国に拡大しつつ、自前でも招聘を行うようになる。

 その内野氏がこれまでに携わった公演は数知れない。古くはナット・キング・コール、パティ・ペイジ。ビートルズの後は、レッド・ツェッペリンやグランド・ファンク・レイルロードなどのロック。スティーヴィー・ワンダー、レイ・チャールズなどのソウル。「ラブ・サウンズ」と名付けたニニ・ロッソ、ポール・モーリア、パーシー・フェイスなどのイージーリスニング。はてはマイケル・ジャクソン、マドンナ、3大テノール(ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス)まで、内野氏は常に興行に関わり続けた。

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「人がやったことのないことをやろうと思った」――業界に入ったときからそう決めていた内野氏。第2回【海外大物アーティストから絶大な信頼…「来日公演」にこの人ありの“伝説の呼び屋”、死去の1か月前も口にしていた“仕事の真髄”】では、3大テノールから歌を贈られた思い出や、自身の生き方を示すアインシュタインの言葉などを明かしている。

デイリー新潮編集部

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