「親密にもほどがある」皇后のアドバイスで亡国の皇太子を選んでしまった「愛妻家皇帝」
古今東西、最高権力者の妻が後継者選びに影響力を持つことは珍しくない。しかし、その影響力が大き過ぎると、しばしば王朝や組織の安定を揺るがす事態を招く。
寵愛する息子を後継者にしようとするあまり、正当な後継者を排斥したり、誰を皇太子にすべきかに口出しして、兄弟間の争いを激化させたりする例は枚挙にいとまがない。後継者選びは、個人の感情や私欲ではなく、組織全体の将来を見据えた冷静な判断が求められるからである。
中国史家で関西学院大学名誉教授の阪倉篤秀氏は新刊『中国皇帝の条件 後継者はいかに選ばれたか』(新潮選書)で、最高権力者の妻が後継者選びに口出しして失敗した事例として、隋の文帝と独孤皇后のケースを取り上げている。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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◆兄弟の争いと母
「私は、人としては劣り、知識も低くはありますが、いつも弟としてのあるべき姿勢を守ってきました。ところが、なにがいけなかったのか分かりませんが、東宮(とうぐう・皇太子楊勇〈ようゆう〉)の愛情を失ってしまい、常に強い怒りを含んで陥れようとされるまでになってしまいました」
隋の第一代皇帝の文帝楊堅(ぶんていようけん)の第2子楊広の嘆きの言葉である。これに対して、生母の独孤(どくこ)皇后は、
「私は彼のために元氏(げんし)の娘を選び、国家繁栄をもたらすようにと願ったが、夫婦として過ごしていると耳にすることもなく、もっぱら妃の雲氏(うんし)を愛してばかり。東宮に嫡子がないままで、皇帝にもしものことがあったら、お前たち兄弟が雲氏の生んだ男児に拝謁することさえ起こりかねないと、いつも気にかかり、これが大きな心配の種になっている」
と応じた。自らが生んだ兄弟間の相克で、母がその一方の肩を持つという最も好ましくない形であるし、さらに嫡長子で皇太子である楊勇に不満を抱き、非難するかのような発言は、母親という枠を越え、皇后として問題であるといわざるをえない。
◆楊堅と独孤氏
楊堅と独孤氏は、中国史上で「最も親密な皇帝と皇后」といわれる。
二人が仲睦まじく、互いに尊重する関係であったことは残された史料からも確認できる。しかし時代は6世紀の中国で、男が上位で女が下位(男尊女卑〈だんそんじょひ〉)、男が主導し女は従う(夫唱婦随〈ふしょうふずい〉)というゆるぎない男社会においてのこのような夫婦関係は、尋常なものとは言い難い。
まして皇帝は絶対的な君臨者で、並ぶものなき存在であるはずである。だとすれば「親密な」との表現は時代的価値観に合うものではない。そこで編み出されたのが「最も皇后を恐れた皇帝」というフレーズである。
◆皇太子として上出来だった楊勇
親としての文帝楊堅について言えば、長男である楊勇を即位と同時に立太子したのは、まさに嫡長子優先の伝統に則り、さらにこの王朝が安定的に次世代に引き継がれることを宣言する意味を持っていたことはいうまでもない。
その時の楊勇は15歳で、当時としては成人とみてもいい年齢で、それもあって楊堅はその翌年から、皇太子楊勇を政務決裁に参加させるなど、早々と帝王学を施した。当時、北辺で不穏な動きをしていた突厥民族への対応として、文帝が山東地方で土地を持たずに農業から離れて流亡化していた農民(流民〈りゅうみん〉)を、一斉に北部国境地帯に移住させて防衛の兵士として活用する考えを述べると、それに対して楊勇は、
「考えますに、習俗を変えるのはゆるやかにすべきで、急に変えるべきではありません。故郷を愛し昔を懐かしむのは民衆の本音でありながら、故郷を離れて流亡しているのはやむをえないからです。
北夷(ほくい・突厥)がその動きを活発化させて北辺の防衛線を侵犯しているとはいえ、現時点ではそのあたりには町や集落が並んでいて備えも充実しているのに、どうして彼らを移住させて混乱を引き起こす必要がありましょう。私は力なき並の人間で、後継者(儲弐〈ちょじ〉)の位にいるのはなにかの間違いかと思いながら、ささやかな意見を声を潜めてお伝えします」
と、謙虚さをともないながらも真っ向から反対し、これを撤回させたという。15歳の少年にしては成熟した意見で感心させられるが、皇太子には「東宮官」と呼ばれるお側付きの臣下が控えており、彼らが助言した結果とうがった見方をしたくなるところもある。
ただ、ほかにも「政治運営がうまくいかない時には、軌道修正を提案し、文帝は常にこれを受け入れた」という記事も残されているから、皇太子としては上出来で、周囲も次代はこの人と思い定めていたことであろう。
◆皇太子に対する不信感
ところが5年後の冬至節(とうじせつ)に、主だった官僚が皇太子のもとにあいさつに訪れ、そこで盛大な祝賀の宴が開催されたことから事態は暗転する。冬至節といえば、先祖を奉る祭祀と並ぶ皇帝主催の重要行事であるにもかかわらず、皇太子があたかも皇帝であるかのように官僚を従えて執行したと文帝はみなし、礼儀制度にもとると決めつけたのである。
さらに悪いことが続くもので、ちょうどこの頃に文帝が希望していた、宮中の警護兵の配置転換による皇帝の身辺警護軍(宿営〈しゅくえい〉)の増強案が、それまで最も信頼を寄せていた宰相の“高けい(こうけい)”の反対で実現しなかったことが重なった。
高けいの娘は楊勇の妃の一人であり、息子は楊勇の娘(大寧公主〈だいねいこうしゅ〉)を妻としているという親族関係があるなかで、皇太子の警護体制が弱体化することを危惧して反対したとみられたことが、これに輪をかけた。冬至節の一件で皇太子に対する不信感が芽生えるなかで、高けいによる皇太子よりの行動はますます文帝の怒りを掻き立てたことになる。
◆「孝行息子」を演じる楊広
こうなると、これまでも不快に思っていた楊勇の行動すべてが気に入らないことになる。楊堅の皇帝即位の前ではあったが、自己の後継者と目する楊勇には、文官の家系で西魏・北周時代を通じて信頼を寄せ、その家柄を認めていた元孝矩(げんこうきょ)の娘を妻として迎えておいたのに、楊勇は見向きもせず、皇太子になってから妃の一人に迎えた雲氏に愛情を傾け、楊儼(ようげん)という男児まで儲けている。
嫡子へのこだわりのきつい楊堅、そして夫唱婦随というより一心同体の独孤皇后には許しがたく、二人して堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題となった。
この直後に、陳併合の軍事作戦があり、そこで楊広と楊俊は功績をあげて文帝の期待に応えた。楊広が揚州総管としてあらたに領域に加えた江南を中心にした地域の統括を、楊俊が并州総管(へいしゅうそうかん)として山西での北辺防衛を委ねられたのは、その功績を認めたからこその措置である。
◆高まる楊勇への不満
冒頭にあげた楊広と独孤皇后の対話は、10年近い揚州滞在から久方ぶりに帰京した時に交わされたものである。母親に取り入るかのように兄との関係悪化に心痛めている風を装い、皇太子への不満をにおわせる言葉を引き出したのだから、次男楊広としてはしてやったりで、あとは兄の楊勇が皇太子の地位を追われるのを待てばいい、いうことになる。
即位して16年、南北の統一をなしとげ、北の脅威であった突厥民族を弱体化させ、支配の安定を果たした文帝は、すでに57歳となり、政務に精励する気力も乏しくなっていた。大興城の西120キロに仁寿宮(じんじゅきゅう)を作り、夏から秋にかけて都を離れて避暑のための滞在をするようになったのが、なによりそれを物語る。そのなかでふつふつとこみあげてくるのは皇太子楊勇への不満と、彼と極めて関係性の深い高けいへの怒りである。
ここでも皇帝と皇后の意見は一致して、高けいはいとも簡単に宰相の地位を追われた。そしてその翌年の600年に、楊勇の皇太子妃である元氏が心労から精神疾患を起こして病床に伏し、2日後に亡くなる。これを受けて雲氏に増長の気配がみえると、独孤皇后はすべての責任は楊勇にあるとして文帝に廃太子を勧め、これは即座に実行に移された。ここに楊広は、狙い通りに皇太子の地位を手に入れることになる。
◆廃太子の決断
文帝は廃太子にあたって、
「この子が後継者には向かないというのは長らく考えていたことだし、皇后も常々廃位するように勧めていた。私が臣下である時代(宇文護専権体制下)に生まれた最初の男児であることから、彼が反省し行動を改めるよう願い、我慢を重ねて今に至ったものの、ここに廃位して天下に安心をもたらそうと思う」
と、楊勇が自ら更生することを期待しながら果たせなかった無念さをにじませながら、王朝のための致し方ない決断であると宣布し、世間の理解を求めた。しかし、いかに取り繕っても、廃太子は皇帝の権威を揺るがせる国家の重大事であるし、これがもとで行われた楊広の立太子は歓迎されるものとはなりえなかった。
この2年後に独孤皇后が亡くなると、第4子楊秀が皇太子の廃立の経緯に不満の意を表明して怒りを買い、文帝は臣下の諫止も聞かずに彼を召喚して幽禁状態に置いた。母親の死によって起こった家族の断絶である。
◆楊広の即位
皇后の死から2年、さらに政治への意欲を減退させた文帝は、新たに皇太子楊広を執政に指名して自らは政務から引退し、604年に64歳で死亡し、楊広が皇帝に即位することになる(煬帝〈ようだい〉)。
事実のみをサラッと書けばこうなるが、この裏にはひとつの事件があった。文帝が仁寿宮で病床に伏して明日をも知れぬ状態になり、皇太子の楊広と妃嬪数人が脇室に待機していたところ、その合間をみて楊広は文帝の寵愛する宣華夫人(せんかふじん)に言い寄る行為に及んだのである。
これを耳にした文帝が激怒し、楊広を廃太子して楊勇を再立太子する意向を示したのを知ると、楊広はこれを阻止する動きに出たが、その直後に文帝の容態が急変して死に至ったという。独孤皇后亡きあとのことゆえ、宣華夫人への寵愛(実をいうと寵愛対象にはもう一人いて、その妃の名は容華夫人〈ようかふじん〉という)は、ここでは問題とはしないでおこう。それよりこの時の楊広の動きの詳細は不明で、容態急変との関係も定かではない。詮索するには絶好の話題で、当時「週刊**」などというのがあれば、食いつきそうな話である。
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※本記事は、阪倉篤秀著『中国皇帝の条件 後継者はいかに選ばれたか』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。