スキャンダル、卒業、コロナ禍…武道館公演は「同窓会に」 3人になった純烈が語る16年の歩み
もがき続けたデビュー直後
純烈は2007年結成。2010年に「涙の銀座線」でメジャーデビューしたが、「もがき続ける」という形容詞がぴったりなグループだった。
「自転車に乗ってライトよりも先が見えない感じ。ホンマ手探りで、見えるより先に手が当たって『なんやこれ?』と思うような時代を送った。みんな食うために一生懸命で、アルバイトもしていて、全員が純烈だけをやるという体勢が取れなかった」(酒井)
5人となってから徐々に上昇カーブを描き、一旦沈んだ友井さんのスキャンダル後も再び上昇。コロナ禍の苦境でもファンの熱意は衰えず、ファンがメンバーとマンツーマンでビデオ通話できる「オンライン2ショット撮影会」を実施。日本武道館公演の成功は、グループとしての一里塚となった。
同窓会でもあった日本武道館公演
「日本武道館って、コンサート会場としても有名なアーティストが出られてるとこなので、変に気張って硬くなるかなと思ったんですけど、意外にそんな感じはなくて。(広さの割には)お客さんの顔も意外に近かった。結成当時の6人時代の頃に来てくれたファンの皆さんや、元メンバーも来てくれて、僕的には同窓会みたいな感じでしたね」
メインボーカルの白川裕二郎(48)が振り返る。林田や友井さんがステージに登場、スケジュールの都合で来場できなかった小田井は大型スクリーンの映像に登場し、同窓会的な空気が会場に充満していたのは確かだ。純烈の歴史を見せる芝居なども交えた3時間超のライブだったが、短く感じるほどだったという。
後上翔太(38)は、極力緊張しないよう武道館公演に臨む準備を重ねていた。
「初出場した紅白の反省です。最初の紅白は気合い入れまくって入れ込みまくりで、その結果、(歌唱した)2分半の記憶が一切なくて。せっかくなら自分の目に、そして心に(武道館公演を)焼き付けたいと思いながら挑んだので楽しかった。とはいえ、通常のコンサートに比べて段取りも多いし、お客さんにも楽しんでもらいたいと思っていた分、細かいところまで深く記憶に残っていたかというと、そうでもないんですけど(苦笑)」
それでも純烈の歴史の中で、武道館公演は「ひとつの句読点を打てるタイミング」と感じたという。
「普段は歴史を振り返り、思い出に浸るみたいなことはあまりないので、自然とそれができる時間でした。武道館という場所の力なのか、お客さんの数の力なのか分からないですが、たくさんのコンサートの中でもやはりちょっと特別。間違いなく、またこういう機会を持ちたいと思えて、すごく意義深かった」
リーダー酒井は、純烈の象徴でもある風呂・銭湯のイメージを前面に出すことを狙っていた。
「参加した人の記憶に残るように。純烈を見てお客さんが風呂上がりみたいな感覚をどう持って帰るのかな、ということへの挑戦だった。同じ11月にとんねるずも武道館公演があったし、矢沢(永吉)さんがあれだけやってる武道館で、純烈が挑むとすれば別ベクトルでの優しくほっこりした気持ち、明日もほっこり頑張ろうという気持ちにどうやったら持っていけるのかなって。結果、上手くいったけど、そこに至る勝負は結成からの日々の積み重ねやったと思うんで、間違ってなかったなという感じはある」
まさに歩んできた日々が凝縮された夜だった。
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結成以来、3人という最少人数となった純烈。第2回【結成以来最少の体制も「100%の3人が残った」 純烈のリーダー酒井一圭が自信にあふれる理由】では、最少人数での現状やその目指す道などを語っている。





