「ものづくり大国・日本」を衰退させた大きな原因…「リーマンショック」「東日本大震災」よりも現場を激変させた“2004年の出来事”とは

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“ある時期”の出来事

 ものづくり大国ニッポンと呼ばれていた時代は、いわずもがな自動車も電化製品も「made in Japan」という高い信頼性で、少々高くても国内外で飛ぶように売れていた。

 しかし、それが“ある時期”から次々に隣国に抜かれるようになる。

 ある時期――。それは2000代後半ごろだ。完全に「made in Japan」の潮目が変わったのを肌で感じた。当時、2008年のリーマンショックや、2010年のギリシャ財政危機、2011年の東日本大震災などの影響により、日本は異常なまでの円高の中にあった。

 筆者が父の工場に身を置いていたのは、まさにそのリーマン前後の約10年だった。

 1ドル75円台。日本の経済を支える製造業界では、大手が一斉に人件費の安い海外へ工場を移転。多くの孫請けや関連する町工場が置き去りになった。

 当然工場から仕事が消える。プライドの高い職人に、砥石や回転工具の代わりに「カマ」や「熊手」を持たせ、外で草むしりをさせるも、数日もすれば極小工場の周辺はツルツルになった。

 中小零細企業というのは、不景気だからといって大手のように簡単に現場の職人のクビを切れるものではない。ミクロン単位の感覚を体に染みつかせ、「作業員」を「職人」にするには、早くとも10年はかかる。それまで会社にとっては、「投資」の期間ともいえる。完全なる労働集約型産業。人材力も財力もない中小企業にとって、こうして成長した職人は、自分たちが作り上げた「財産」そのものだ。

 それに何より、小さな会社だからこそ様々な事情を抱えた人たちがやってくる。

 仕事がなくなったからといって、長年家族のように過ごしてきた仲間を切る、という選択は、少なくとも筆者の工場ではできず、結局、職人たち皆一緒になって、次の雑草が生えてくるのを首を揃えて待つ日が続いた。

ものづくりを衰退させた「派遣法」

 こうして筆者の工場は、ギリギリのなかでも高い技術力を最後まで確保することができたが、同じころ、ブルーカラーのなかには現場を「コマ」のように扱う風潮が見られるようになった。

 そのきっかけになったものがある。「製造現場への人材派遣解禁」だ。

 1986年、専門的力量が必要とされる13業種に「労働者派遣法」が制定された。ところが、様々な現場で人手不足が深刻化していくと、徐々に業務内容に関する条件が緩和。対象業種も増え、ついに2004年、製造業にまで浸透した。

 これこそ、日本のものづくりを衰退させた大きな要因の一つだと、今改めて思う。製造業に派遣が解禁されるや否や、一気にその数は増加した。

 一般社団法人「日本人材派遣協会」によると、2021年度最も多かった派遣は事務職で、次いで多かったのが製造関連職。男性のみで見ると製造業が33.3%を占めトップになる。

 こうして“使い勝手”のいい派遣が現場に入ってくるようになると、現場経験の長い職人やベテランの社員が減っていくようになっていった。

「ラインの組み立てなどには蓄積した技術なんていらない、単純作業なんだから今日来た派遣でもできる」

 と思われることがあるが、それは大きな間違いだ。

 何年もやっていると、機械の調子が悪くなるタイミング、製品になる鉄の質の違いまでをも判断できるようになってくる。また、前回の「すし職人」の回でも紹介したが、職人になるには、やはり「失敗をすべてやりきるための時間」が必要になる。

 現場にこうした「失敗をやりきった経験者」が少なくなるというのは、製造の進歩を遅らせる大きな原因になる。

 実際、工場ではないが、昨今2024年問題で人手不足にあえぐ「物流」の世界でも、ベテランが切られ、現場でタイミーなどの「すきまバイト」や派遣社員が増えたことで、現場のトラックドライバーからは「仕分けの方法を知らない現場が多くなり、仕事に影響が出るようになっている」という声もよく聞かれるようになった。

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