「巨人岡本」は前半戦での復帰が絶望的…4番打者の長期離脱を乗り越え優勝したチームと、優勝に立ち会えなかった選手の「その後」

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「マニエルおじさんの遺産を道楽息子たちが食いつぶした」

 巨人の岡本和真が5月6日の阪神戦でタッチプレーの際に走者と交錯して左肘靭帯を負傷、前半戦の出場が絶望的となった。不動の4番の長期離脱に、巨人は緊急トレードでソフトバンクからリチャードを獲得するなど、穴埋めに四苦八苦しているが、過去には4番打者が長期離脱するアクシデントにもめげず、優勝したチームも少なくない。【久保田龍雄/ライター】

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 チームきっての強打者をアクシデントで欠きながらも、全員が力を合わせ、最終戦で優勝を決めたのが、1979年前期(当時のパ・リーグは2シーズン制)の近鉄である。

 同年、トレードでヤクルトの主砲・マニエルを獲得し、大砲不在の悩みを解消した近鉄は、開幕から4連勝するなど、4月を13勝3敗1分のロケットスタート。5月に入っても好調を持続し、同19日にはマジック「19」が点灯した。快進撃の原動力となったのが、6月初めまでに24本塁打を放ったマニエルだった。

 ところが、そのマニエルが、6月9日のロッテ戦で八木沢荘六から顎に死球を受け負傷。前期の残り試合出場が絶望となった。

 頼れる4番の離脱により、“近鉄特急”も6月10日以降の11試合で3勝6敗2分と急失速。同23日には阪急に逆マジック「4」が点灯し、西本幸雄監督も「マニエルおじさんの遺産を道楽息子たちが食いつぶした」と嘆息した。

 だが、残り3試合に全力で挑み、南海に2連勝。阪急が日本ハムに敗れたことにより、マジック「1」まで漕ぎつけた。

 そして、6月26日のシーズン最終戦、南海戦、引き分けでも優勝が決まる近鉄は、1対1の8回1死一、二塁のピンチに、阪本敏三に中前安打を許すが、センター・平野光泰の“奇跡のバックホーム”で勝ち越し点を阻止。執念で引き分けに持ち込み、前期優勝を決めた。

 後期の8月3日にはマニエルもフェイスマスク付きの特殊ヘルメットで復帰。後期は2位に終わるも、阪急とのプレーオフを3連勝で制し、球団創設30年目で初V。“12球団で唯一優勝していないチーム”の汚名を晴らした。

「事実上落合を引退に追いやった死球」

 1983年の西武も7月に4番・田淵幸一が死球で長期離脱したが、大田卓司、テリーらが穴を埋め、2連覇達成。日本シリーズでも宿敵・巨人を下し、2年連続日本一の座についた。

 1996年に最大11.5ゲーム差をひっくり返して“メーク・ミラクルV”を実現した長嶋巨人も、2位・広島に1ゲーム差の首位だった8月31日の中日戦で、4番・落合博満が野口茂樹から左手小指に死球を受けて骨折。全治2週間と診断され、チームはシーズン終盤の最も大事な時期を落合抜きで戦うことになった。

 翌9月1日の同一カードからマックが4番を務めたが、“落合ショック”から、その後の4試合で1勝3敗と黒星が先行。広島に首位を奪還され、一時は暗雲が漂った。

 だが、広島も4番・江藤智の負傷離脱に加え、投手陣も息切れし、9月中旬から6連敗と急失速。この追い風を受けて、巨人は3番・松井秀喜の2試合連続弾などで9月17日から3連勝で首位を奪還する。その後は広島に代わって2位に浮上した中日の追撃をかわし、シーズン129試合目で2年ぶりVを決めた。

 10月6日に中日を5対2で下し、2年越しの“メーク・ドラマ”を完成させた長嶋茂雄監督は「今年は選手のパワーに乗ってやってきました。選手に助けられての優勝です」と語っている。

 落合はオリックスとの日本シリーズで復帰したが、16打数4安打1打点に終わり、チームも1勝4敗と完敗。シーズンオフに西武からFA移籍してきた清原和博と入れ替わるようにして巨人を去り、日本ハム移籍後の98年に引退したことから、「事実上落合を引退に追いやった死球」ともいわれている。

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