学生相撲出身初の横綱「輪島大士」を鍛えた“見えない努力” 元付け人の峰崎親方が明かす 「朝稽古を終えるとフラーッと部屋を出て…」(小林信也)

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“黄金の左”の異名を取った第五十四代横綱・輪島(花籠部屋)は、相撲界の風雲児でもあった。

 2年連続で学生横綱になり、日大から幕下付け出しで角界入り。幕下で2場所連続全勝優勝を飾ると十両は4場所で通過、入門1年で入幕を果たした。

「先代(11代花籠)に厳しく言われてましたから、稽古はかなりやってました。平幕から三役に上がるくらいの時期が一番かな」

 懐かしそうに振り返るのは現・峰崎親方(元幕内・三杉磯)だ。輪島が入幕したころ、14歳で入門した。

「最初にあいさつした時、輪島さんは髪がもじゃもじゃで、暗いし怖かった。でもユーモアのある人だと分かって」

 自ら志願し、輪島の付け人になった。

「見えないところですごく鍛えていました。朝稽古で四股を踏み終えると、『行くぞ』と私を誘ってフラーッと部屋を出るんです。関取衆が土俵に上がるまで間がありますから」

 花籠部屋のあった阿佐ヶ谷から荻窪方向に走る。行き先は陸橋の長い階段だ。

「階段を駆け上がったり、うさぎ跳びで昇ったり。うさぎ跳びなんて、私はきつくて昇りきれませんでした」

 強靭な足腰は天賦の才だけでなく、相撲界ではご法度とされていた走り込みなどで鍛え上げたのだ。

 輪島は身長こそ185センチと高いが、驚くほど軽量だ。

「日大からプロに入った時、体重はだいたい100キロくらいでした」

 生前、輪島自身が語っている。いま100キロの関取はいない。幕内最軽量の翠富士が115キロ。記録には129キロとあるから、入門後に増えたとはいえ、小兵と呼ばれる平戸海(137キロ)より軽い。

下手投げで一世風靡

 1972年9月場所の千秋楽、皇太子殿下(現上皇陛下)御一家が見守る中で、水入りとなった貴ノ花との一番はいま見直しても力が入る。

 引き締まった筋骨隆々の肉体で互いにつり合い、しのぎ合う。最近では見られない“ぜい肉のない力相撲”だ。4分におよぶ攻防の末、輪島がつり気味に寄り切って貴ノ花を下した。13勝の輪島、10勝の貴ノ花は場所後共に大関昇進を果たした。

 73年7月には横綱昇進。1年後に横綱になった北の湖と“輪湖時代”を築いた。

 輪島の武器は“黄金の左”。黄金色の締め込みと強烈な左下手投げをかけた言葉。左下手をつかめば次の瞬間、たいていの相手は土俵に転がされた。上手優位とされる相撲界で、下手投げで一世を風靡した横綱は珍しい。プロ入り後に習得したという下手投げについても、峰崎が教えてくれた。

「輪島さんは胸板が厚くて肩幅が広い。肩がいかっているせいか、私がまわしをつかんでも自然と脇が甘くなって重心が浮かされるんです。そういう技を磨き上げたんだと思います」

 差してくる相手の重心を瞬時に浮かせてしまう。独特の体形と技が織りなすまるで蟻地獄のような境地。“黄金の左”には知られざるからくりがあったのだ。

「私も多くの力士とやりましたけど、輪島さんは一番強いんじゃないかな」

 北の湖、三重ノ海の両横綱を2日連続で破った実績もある峰崎が真剣なまなざしで言う。

「とにかく、組み合ったら、家の柱を引っ張ってるみたいな感じでビクともしない。あの腰の重さ、体幹の強さ、ピカ一でした。やはり相撲の天才ですね」

 幕内優勝14回。うち全勝3回。ライバル北の湖との対戦成績は23勝21敗、貴ノ花には31勝17敗と勝ち越している。学生横綱が大相撲でも横綱になったのは現時点で輪島一人だ。

 73年11月場所では、12日目の貴ノ花戦に勝ったが右手の人差し指と中指の間が裂けた。翌日、北の富士に敗れ連勝が27で止まり休場。それでも優勝し、入院先から表彰式に駆け付けた伝説の持ち主でもある。

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