【べらぼう】福原遥演じる花魁「誰袖」 小芝風花「瀬川」より強烈だった人生の結末
教養があり狂歌を遺した
すでに『べらぼう』の第18回で、誰袖が朋誠堂喜三二(尾身としのり)のもとへ花魁道中する場面が流された。実際、誰袖は「呼出」だったのである。蔦重が天明3年(1783)正月に刊行した吉原のガイドブック『吉原細見』には、「大もんじや市兵衛」のもとの女郎として「たがそで」という名が記され、名前の右上に「よび出し」と明記されている。
花魁ともなると、教養ある客を相手にすることが多く、女郎にも一定の教養が求められたが、誰袖の場合、身につけた教養の痕跡がいまに残されている。彼女は狂歌を詠んだことで知られる。和歌の定型に滑稽な内容や皮肉、風刺などを盛り込んだ狂歌は、天明の時代に大流行し、蔦重も狂歌絵本に力を入れることになる。
誰袖の歌は天明3年、蔦重以外の版元から刊行された『万歳狂歌集』に載っている。「わすれんと/かねて祈りし/紙入れの/などさらさらに/人の恋しき」。忘れたいと祈っていても、彼からもらった紙入れを見ると、ますます恋しくなる、という恋の歌だ。
彼女が所属する大文字屋の楼主の市兵衛は、前述したように病死した。このため養子が後を継ぎ、同じ大文字屋市兵衛を名乗った。この2代目は、じつは天明の時代を代表する狂歌師でもあり、「加保茶元成」という狂名(狂歌を詠む際のペンネーム)で活躍した。自分の別宅で頻繁に狂歌の会を開催したほどだから、誰袖も手ほどきを受けたのではないだろうか。
誰袖はほかに、自分の姿絵も後世に伝えている。山東京伝(浮世絵師の北尾政演と同一人物)が記した蔦重刊『吉原傾城新美人合自筆鏡』には、大文字屋の女郎たちが描かれた錦絵のなかに「たか袖」の名が見える。
身請けにかかった1,200両の出所
状況証拠からして、かなり売れっ子だったはずの誰袖だが、彼女が呼出と記されて1年後に刊行された蔦重版『吉原細見』には、その名が消えている。身請けされたのである。身請けとは、客が女郎の身請け証文を買い取って、女郎の身柄を引きとることだ。しかし、客は『べらぼう』の第19回で誰袖が望んだ蔦重ではなかった。
それは旗本で幕府の勘定組頭を務め、『べらぼう』では桝俊太郎が演じる土山宗次郎だった。1,200両(1億2,000万円程度)が投じられたと伝えられる。ドラマで誰袖が蔦重に求めた500両(5,000万円程度)よりだいぶ高額だが、じつは、必ずしもそうではない。女郎を身請けする際は身請け金だけで済まないのが一般的で、祝儀を渡したり祝宴を開いたりして出費がかさみ、身請け金のグロスの2倍程度かかることは珍しくなかった。だから、身請け金は500~600両程度だったかもしれない。
だが、それにしても、一介の旗本に払える金額なのか。瀬川を身請けした鳥山検校は、旗本の困窮に付け込んで法外な高利で金を貸し、旗本たちを破滅に追い込んでいた。土山宗次郎が支払えたのは、どうやら勘定組頭という仕事と関係があった。
諸大名が幕府になにかを依頼するとき、窓口といえば勘定組頭で、その際、贈り物をするのが事実上の習わしだった。とくに田沼意次は新規事情を次々と進め、宗次郎も蝦夷地の開発やロシアとの交易など、意次が検討する事業にかかわりをもっていた。田沼時代の汚点とされるのが、新規事業に関して賄賂を受け取る人間が増えた点だが、宗次郎はまさにそういう窓口だった。
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